何故にすべての人間は個我の生産物を持ち得ないのか。そして何故に個我の生産物を創り出さうとするものは、僅かな余暇のみを利用せねばならないか。ぼくはこの理由を主として社会制度の馴致された構造に帰せしめる。そして極く僅かな理由を、人間が生存するために働かねばならない最小限度の与件に帰せしめる。(断想Ⅶ)

個我の生産物というのは、芸術のことといえると思います。しかし芸術というと生産活動の外にあるものという感じになります。しかし吉本のこの初期ノートの言いかたというのは、人間の生産活動というものをもっと拡大してとらえたい、そして芸術といわれている自己表現の活動もその生産活動の内に含めて考えてみたいという意味がこめられているように思います。もしそうなら、なぜ生産という経済の場面から芸術というものははじき出されてしまうのか、芸術という個我の内面の表出はなぜ経済の外側に出されて、そこで芸術だの文芸だのというジャンルに閉じ込められてしまうのかという疑問は、吉本の晩年まで貫かれて新しい歴史観の構想につながっていったと思います。
人間の社会を根底で規定する経済というものは、貨幣を価値とした外面的な歴史であって、そこからはじき出された内面の歴史は、芸術というようなジャンルに閉じ込められている。それを当たり前だと思っている。しかし吉本の「アフリカ的段階」などで提示された歴史観は、最古の歴史段階のなかに見いだされる内面史と外面史との混淆が、未来の歴史段階によみがえるものとする独自の歴史の構想を提示しています。そこでは貨幣という価値を越えるものとして、言語を価値の基準として考えるとされています。ということは、こうした初期ノートの発想もその後50年、60年と持続され、吉本の最後の思想につながっているということになります。
こんなところで「うつ」についての吉本の考察というテーマに移らせていただきます。吉本自身の「うつ」の見解が登場する前に、その見解の基礎になった思想家たちの考察を吉本は紹介しています。それを追っている段階です。まずキルケゴールキルケゴール「うつ」の考察は、過去から現在そして未来へという了解の流れが逆転し、現在を過去が洪水のように浸してしまう。そして圧倒的な過去感のなかで、現在の自分の現在感は洪水のなかの小さな屋根の上のように、ちっぽけな、つながりのない、消滅しそうなものに陥っていくというものです。
次にフロイトです。フロイト「うつ」の考察は、単なる「悲哀」と「うつ」の違いを、「うつ」では自我感情が貧困になるというところにみています。そして重要なのは、「うつ」を自我の一部(いわば「良心」)が分離して、自我の他の部分を嫌悪し、他人の非難のもとにさらけ出せるようにするという考察です。つまり「うつ」フロイトによれば、良心が病むという「倫理的な病」だということです。
そしてこの「良心」という自我の分離された倫理的な部分の強さの度合いは、「母親にたいする関係の強さ」に依存する、と吉本は述べています。度外れに母親コンプレックスに支配されているときに、人は「うつ」状態に没入するということです。そしてまたフロイトの考察では、「うつ」は「根源的なナルチシズム(自己愛)」というものに基礎を置いているということになります。ここから「母型論」へつなげていきたいと思いますが、まだ早いのでさらに吉本の「心的現象論本論」の論旨を追ってみます。
さて「うつ」の理解として、これもたいへん重要なことだと思いますが、「うつ」はなにかの出来事をきっかけに誘発される、ということは確かだとしても、きっかけとなった事柄の意味内容にあまりかかわりがない、という見解です。吉本はこのことはすでにフロイトによって気づかれ指摘されていたと述べています。この見解にさらに考察を加えたのは、クルト・シュナイダーというドイツの精神医学者です。シュナイダーによると「うつ」は心的な「剥離」によって基層が露出してくることだと考えられています。
たとえば失業したとか失恋したとか、非難されたとか無視されたとか、あるいは環境が変わったとか、新しい責任を背負わされたとか、さまざまな事柄が「うつ」のきっかけとなりえます。しかしその事柄の意味が「うつ」を引き起こすのではない、といわれているわけです。だったら、ただ「衝撃力」のある事柄であれば、その意味に関わらず「うつ」に陥らせる、ということになります。ある事柄、ある体験が、その内容ではなくその「衝撃力」で「うつ」に陥らせるということです。ここまでよろしいでしょうか。
この体験の意味でなく衝撃力が「うつ」状態を誘発するということを、吉本はキルケゴールフロイトの見解も取り入れて考察しています。あるひとが「悲哀」の状態にあって、かれの心的な状態は過去から未来へ向かうという時間のベクトル(了解)を逆向きにして、追憶される過去に向かって、小さな像で現存していた。平たく言えば過去の悲しみにとらわれて、現在の自分の自我は小さな像になっていた。そしてなんらかの心的な「衝撃」がおとずれた。そして小さくなっていた自我はさらに極小に押しやられ、もはや「存在しない」自我へまで押しやられそうになった。そのとき、もう自我が押しつぶされそうになったとき、「了解」は「非存在に向かって現存」するものと置き換えられる。「非存在」というのは「自分の死」ですから、「もしも自分が生まれていなかったら」と「もしも自分が死に向かって存在するなら」とが同じものになる、と吉本は述べています。
分かりにくいと思うのでひらたく言い直してみます。なにか悲しい体験があって「悲哀」に包まれている。こころは未来を思い描く余裕がなく、過去に貼りつけられて、現在の自分の自我は小さくなっています。ここまではまだ「悲哀」であって「うつ」ではないということになります。誰にでも起こりうることだからです。
そこになにか「衝撃力」のある事柄が起こる。もしこの事柄が、小さくなっている自我をさらに押しつぶし極小の自我から非存在の自我へ、ちっぽけな自分がら死んだほうがいいような自分にまで押しつぶした時に、ある変容が起こるということです。「悲哀」では、まだ現在が過去を思い起こしています。つまり追憶しています。しかし変容が起こって、現在を過去が洪水のように浸してしまう。そして「漠然たる過去感」のなかで離れ小島のようになってしまった「死ぬしかない」自分(非存在の自我)に向かって「了解」がむかう。つまり「死ぬ」あるいは「生まれてこなかったとしたら」ということしか考えられなくなる、ということだと思います。この「衝撃力」のある事柄が心的状態を変容させ、了解(時間性のベクトル)を「自己の非存在(その極限は死である)に向かって現存」するものに変えてしまったとき、「悲哀」は「うつ」に変容するということになります。「死ぬしかない」であれ「生まれてこなかった方がよかった」であれ「生きているのがむなしい」であれ、何を考えてもすべては自分が消えることにむかう。そして小さな貧弱な自我意識に閉じこもる。そして重要なのは、そうさせるなにかの事柄の、意味でなく、「衝撃力」の秘密は、フロイトのいう「良心」にあると吉本は述べています。ある事柄を衝撃の強さと受けとるのは、自我のなかのある部分の自我(フロイトのいう良心)だということです。
なんだか同じことをくどくどと言い直していますが、要するに読んでいる人へ気をつかってわかりやすく言い直しているような言い方をしていますが、結局自分自身がよくわかってないから言い直してみてるだけなんですけどね(*^o^*)
シュナイダーは心的な「剥離」によって「基層」が露出する。それが「うつ」の本質だといっています。では「基層」とは何でしょう。「基層」は「基底抑うつ」とも言い換えられています。
シュナイダーはこの「基底抑うつ」を「人間の原始不安」という概念に還元しています。こういう考察はシュナイダーがフロイトの影響を受けているからだと吉本は考えます。シュナイダーは「うつ」の妄想は「罪業妄想(罪悪感)」「心気妄想(病気でないのに病気だと思う)」「貧困妄想(実際よりも貧しいと信じる)」が代表的だが、これらは人間の根源的な不安だと述べています。原始の時代から人間を襲ってきた人間の生存につきまとう「生老病死」のような根源的な不安が露呈するのが「うつ」だということになります。
吉本によればこの「根源的な不安」というシュナイダーの概念は、フロイトの「食人期」「口唇期」へのナルチシズム的な退行(根源的なナルチシズム)という概念と共通していると述べています。この「基底抑うつ」は、外界のできごとに反応し変動する「瞬間的に変動する気分変調」のこころの層、および基底には届かないが気分の変調がかなりの持続を示す「抑うつ層」があり、さらにその奥にある層だということです。だから外界のできごとにほとんど反応しない。こころを襲うできごとの意味内容に反応しないわけです。意味内容に反応するのは「瞬間的な気分変調」の層」および「抑うつ層」で、これら層が病むことを「神経症」とみなせば、基底抑うつである「原始不安」が露出する「うつ」は、「神経症」とは明確に区分されることになります。
シュナイダーの「原始不安」という考えはどうですか。わたしにはどうもしっくりきません。人類が原始時代から苦しんできた苦しみや不安・恐怖が残っているものということでしょうが、それが現実のうつの人と重ならないんですよ。たしかにうつの妄想類型は生老病死というような原始的な不安に共通しているとは思うけど。
さて、このシュナイダーの考察に批判を加えたのがL・ビンスワンガーというスイスの精神分析医です。ビンスワンガーの考察の次に吉本自身の「うつ」理解があらわれます。しかしその部分は次回で。