僕らは執着することは出来ない。受容するだけだ。(忘却の価値について)

これは受け身ということを言っているわけです。受動性です。執着というのは意思です。忘れないぞとか絶対たたかってやるというのが意思です。しかしそういう覚悟や意思というのはもろいものです。それは世界が変わると変わってしまう。しかし世界からやってくるものを受け身で受け取ること自体は変わらない、というか逃れられない。この戦争で死ぬのだ、という吉本の意思や覚悟や執着は、戦争が終わった時に終わったわけです。世界が変わると個人の積極的な意思や覚悟は変わる。しかし世界は終わらない。だったら世界から受け身で受容している、受容せざるをえないもののほうが心の芯にあるというか、信用できるということになるでしょう。その受容性は必然性であり、宿命であるとみなされるものです。もし意思とか覚悟とかという積極的な内面性が、受容性であるものと一致することがあるとすれば、それは意思や覚悟の土台となる思想が、この世界を世界の変容を先取りできるほどに徹底されたときだということになります。内面性というのはそこでようやく統一されるわけです。そこまで行こうというのが吉本の独白なんだと思います。

おまけです。
何よりも抽象力を駆使するということは知識にとって最後の課題であり、それは現在の問題にぞくしている。柳田国男の膨大な蒐集と実証的な探索に、もし知識が耐ええないならば、わたしたちの大衆は、いつまでも土俗から歴史の方に奪回することはできない。
「無方法の方法」(「柳田国男論 1995洋泉社」より    吉本隆明