仮りに君が街の市場へ出て飴の棒を購つて見給へ 針金のやうに細く可憐な飴が一本で一円するだらう けれど君はそれを売つてゐるお神さんを恨んではいけないのだ その理由は言ふまい お互に空腹だから黙つてゐても判るだらう 若し君が高い飴を売るお神さんも傷つけず、君自身の心も傷つけたくないと思つたら、甘いものを欲しがる心を抑へて買はないで済ますことだ けれど若し君の心は傷ついてもいゝ唯お神さんが可哀そうだと思つたら敢然として余り甘くもない針金のやうな可憐な飴をながめるがいゝ それとおなじやうに私の無門関を読むべきだ(

この「無門関研究」という文章は1945年つまり日本敗戦の年に書かれています。吉本は20歳くらいです。無門関研究といっても学術的な研究ではなく心情をぶつけたような文学的な文章です。「無門関」というのは中国の宋代(1200年頃)に無門慧開という人が書いた48の公案集で禅宗の修行に用いられるものだそうです。私は学生の頃に禅寺に修行に行ったことがあります。禅には臨済禅と曹洞禅というのがありまして、私は道元という禅師が開祖の曹洞宗の禅寺に行きました。1か月くらい泊まり込みで座禅の修行と掃除なんかをしていました。なんで曹洞宗のほうを選んだかというと、道元の書いた本を読んで意味は分からないけれど、その強烈さというものに惹かれたんだと思います。そして非常にシンプルなんです。只管打坐といって、とにかく坐ること、座禅をすることがすべてであるというふうに道元は言っています。道徳的なことも教義的なことも哲学的なことも何もいわない。ひたすら坐ることがすべてであるという言い方のなかに何か惹きつけるものを感じて、これは経験してみるしかないと思いました。臨済禅では公案を用いるが、曹洞禅では公案すらも「不立文字
、つまり文字を排すということで用いないと聞いて、これはますますシンプルで気に入ったんだと思います。また禅宗には武道に似たストイックな厳しさの魅力があって、それも好きだったんだという気がします。オウムに惹かれて体験しようとした若者たちと別に変わりないと思います。「公案
というのは禅の修行者に出される言葉による問題で、たとえば無門関の最初に書かれている公案は、「犬にも仏性はあるでしょうか」と聞かれて「無」と答えた、というものです。他にも有名な公案には白隠禅師が作った「両手を打ち合わすと大きな音がする。では片手ではどんな音がしたのか。その音を聞け」というのがあります。こういう考えてもわかりそうもない問題を座禅しながらひたすら考え続けるのが(主として臨済系統の)禅の修行なんだとおもいます。
吉本の「無門関研究」に何が書かれているかというと、吉本のなかに気も狂わんばかりの苦しみがあって、「無門関
に救いを求めるのだけれど、書かれていることから撥ね付けられてなかに入ることができない。しかしこのじぶんの苦しみだけは本物なんだというようなことです。当時吉本はキリスト教の教会にも行ってみたことがあると書いていましたから、なにか絶対的なものを求めて彷徨していたんだと思います。なにがそんなに苦しかったのかといえば、このノートの書かれた1945年という年を思えば敗戦の衝撃なんだと思います。敗戦の受け止め方は日本人の百人百様であったとおもいますが、吉本にとっては(生きていることが恥ずかしくてしょうがない。ふとした時につい笑ったりすることがあるが、そうした笑うという自分がまた恥ずかしくてしょうがない)というものだったと思います。この衝撃を思想的に決着をつけないなら生きて戦後に入っていくことはできない、と考えつめられたと述べられています。ここに吉本の思想的な原点があり、それまでの化学者を目指す人生の進路が物書きという方向へ転換していく契機があるわけです。
吉本は禅宗についてはどのように考えたか。これは私の過去の経験からも興味深いことでした。吉本は聖書と親鸞については多くの文章を書いていますが、禅宗について書いたものは少ないのです。道元について直接に書いたものはありませんが、良寛について書いたものの中に良寛禅宗ですから道元の思想について触れたものがあります。良寛道元の「正法眼蔵」という著書を読み、道元にとても惹きつけられます。しかし良寛道元の教えに付いていくことができない資質がありました。それは文学的な資質です。道元は「正法眼蔵」のなかで詩文に淫しては堕落なんだと厳しくしりぞけている。また老荘の思想をしりぞけている。しかし良寛は詩文と老荘の思想に深く淫していく資質をもっていたということです。
ちょっと思い出したんですが、私が座禅の修行をしていた時に、そのお寺の一部にコンクリートの建物があってその屋上を掃除していたんですが、そこから品川の街並みと高架をを走る京浜急行の電車が見えました。ずっとお寺のなかで座禅をしているわけですから、その風景はとても解放感があって(ああいいなぁ)って感じで放心してたわけです。そのとき(なんかこういう風景が好きだというようなことは禅にとってはダメなんだろうな)と感じたことがありました。ひたすらに根源的ななにかに向かってしゃにむに余計なものを切り捨てていくような禅の世界には、こういう感受性は捨てるべきものだとされる気がします。そうだとすれば禅にすべてを賭けてしまえる人物もまたある独特の資質の持ち主ともいえるでしょう。
正法眼蔵」にあらわれた道元の思想はひとつには釈迦に始まり中国に渡った仏教の正統性を継いでいるのはじぶんだという強烈な正統意識だと吉本は述べています。それは自負であるとともに偏狭さだと吉本はいっています。道元は中国に留学し天童山という寺で修行しました。当時は宋の時代で、宋代の中国における禅の思想は一種に転換期にありました。仏教禅によく似た南中国の思想である老子荘子の思想を融合して、禅の中国化の風潮があふれていました。そのなかで天童山は厳しく仏教の純粋性を守る流れをもっていたと吉本は述べています。道元老子荘子と融合してしまった禅の思想を、仏教本来の思想ではないと厳しく批判しています。
すると道元が釈迦から天童山を経てじぶんが受け継いだとみなしている正統の仏教とは原始仏教の純粋性ということになるでしょう。では原始仏教とはなにか。吉本は仏教以前のインド思想の霊魂観を述べています。人間は形のある肉体をもっているが、そのなかに精神という目に見えない微細なものが宿っている。それは霊肉二元論ではなく、眼に見えるものを微細にしていくと、眼に見えないものになる、それが霊魂であり精神というものだという考え方だということです。だから人間の形ある肉体のなかに精神や霊魂は宿り、形ある肉体は失われても、眼に見えない霊魂やそこから出て他のもののなかへ宿るという考えになります。そのようにして生命は永続すると考えます。これが仏教以前のバラモンやヨーガにある生命観だと吉本はいっています。
老子荘子のようなインドに近い南中国の思想は、原始的なインド思想に似ている、もとは同じではないかと思えるほど似ていると吉本はいいます。ただ老子荘子には肉体的な修練によって天地と合一したり、永続的な生命に合一したりする考え方はありません。しかし仏教あるいは仏教以前に流れているインド思想には、肉体的な修練を加えることによって天地と合一し、眼にみえない自然の精髄に融合できるという考え方があります。そうして天地と合一した時に脱化して「無」というものに到達することができる。老子荘子には肉体を虐める方法がない、と吉本は述べています。人間はどうしたら永続的な生命を得られるか。肉体的な修練によって無機的な自然にじぶんをもっていけたら、無機的な自然に、生も死もなく喜怒哀楽もないように生死から脱化することができる。インド思想の起源にあるのはこうした考え方だと吉本はいいます。そのインド思想の起源、あるいは原始仏教のもっていた精髄を失っているというのが道元老子荘子に融合した宋代の仏教に対する批判であったのでしょう。
仏教はその原始仏教の精髄のところに現世の愛欲とか喜怒哀楽とか差別とか貧困とかの生老病死の苦しみからの脱却を、人間が肉体的な修練を重ねることで、無機物と同じところまでいってしまう、「心身脱落」というんですがそのように脱落して無機物と同じところにいってしまうならば生老病死の苦しみから脱却して自然の時間に同化して永続的な生命にはいっていくことができる。だから道元によれば仏教の本質そのものは宗派ではないということになります。そこが良寛が感心したところだったと吉本は述べています。そして道元は座禅こそが、釈迦が導入したにんげんが無機物にいたる肉体的な鍛錬をもっともよく伝えているものだと確信しています。それが道元の「正法眼蔵」に流れる確信の強さ、絶対的な声調の魅力になっているわけです。
吉本はさらに「正法眼蔵」を読み込んでいます。道元が行使している論理は、ここに世界を二つに分ける対立概念があるとすれば、その概念の一方がもっているものは、必ず他方ももっているものだということだと述べています。<殺す>という概念と<祖>や<仏>という概念が対立する一般者であるとすれば<殺す>という概念は<祖>や<仏>を包括し<祖>や<仏>という概念はかならず<殺す>という概念を包括している。これが「祖仏共に殺す」という概念に相応すると吉本はいっています。
また私はよく覚えているんですが、吉本はさらに道元の思想を解説して、座禅によって息の仕方を整えていき、じぶんを無機質と同じところにもっていけたら、天地自然は必ずことごとく仏性をもっているとみえるはずだ。<仏>という概念と<天地自然>という概念が対立的であるとすれば、仏性は自然を移しいれ、自然は仏性を自己のなかに移し入れるということです。じぶんを無機質的自然に合一させたときに天地自然が明るい光明として映るか映らないかということが問題なんだと道元は述べていると吉本はいっています。この天地自然が明るい光明として映るか映らないかというところは心に残っています。それはなんだろう?
吉本はなんで現代の自分たちが道元だの親鸞だのという大昔の思想を取り上げるのか。それは今までさんざん詳細に研究されつくしてきたものだ。いまさらにこうした思想を取り上げる意味はひとつしかない。それは現代のじぶんたちが洗礼を浴びた西欧思想を取り入れてその拡大した視野から取り上げることだ。道元にしても老荘論語は低地アジアに起源をもつ古典古代以前的な思想で、大きく世界史的には<アジア的>な思想ということができます。この<アジア的>という概念はヘーゲルマルクスによって地域的な意味と歴史的な意味の二重性を帯びた概念として作り上げられている。その二重性の<アジア的>という概念から仏教思想をとらえ返すということだけが西欧思想の洗礼を浴びた自分たちがもつ意味なんだと吉本は述べているわけです。
すると道元の思想がある偏狭さをもっていたとしても、また道元のように肉体的な鍛錬としての座禅にすべてを投入して生きることが、ある特異な資質をもった人物にしか可能でないとしても、道元がたいへんラジカルな思想家であり座禅の実行者としてなにか重要なことに触れているということはまちがいないように思います。それで大変ながながと解説してしまいましたが、ここから母型論のいつもの解説につなげることもできるとおもいます。道元は古典古代以前のアジア的な思想の精髄をもたらした。そこに時代的なテーマや時代的な切実さは切り捨てられていたとしても、<アジア的>なるものの精髄は極限まで掘り下げられていたとみなすことができるのではないかと思います。また若い一時期はまっていた自分のためにもそう思いたいというところもあります(〃_ 〃)ゞ
吉本は<アジア的>な概念のヘーゲルマルクスの作った二重性を、さらに三重化して考えようとしていると私は思います。三重とはつまり<アジア的>という概念に母型論的なにんげんの乳胎児期からの心的な移り行きという概念を重ねることです。その三重化は<アジア的>のさらに以前の<アフリカ的>と吉本が名づけた概念についてもあてはまります。そのことによって内面史と外面史を総合して「歴史を始まりからぶっとおす」ことが可能となる構想を抱いていたと考えます。