僕は眼を持たない。眼なくして可能な芸術。それは批評だ。(原理の照明)

吉本は視えないものを視、聴こえないものを聴く。分かりやすくいえば、どこにも書かれていない発言もされていない秘された個人の心の奥に触れることができる。私の若いころ大学闘争が盛んだったころ、教授がつるし上げられたり教室がバリケードでふさがれたりした。そんな中で吉本が大学の教員のなかには学問が好きで、ほかの世間では生きていけないけど、研究室をあてがってもらって学問をこつこつやっていれば生きていけそうだ、そんな学者もいるはずだ。そういう人にとってはこの学生闘争はキツいだろうと発言した。それは誰も言わなかったことだし、私も考えてもみなかった。しかしこのにんげんの見かたは心に残った。確かにそうだから。そういう学者は公の発言なんかしないし、政治的な学生たちの迫力に押しまくられておろおろしているんだろう。感覚と言語の論理性だけでは視えないものがある。ご自分を棚にあげた共同体主義では視えないものがある。一回りしてみなければ。自分の底をどろどろと地獄めぐりしないとねってことだと思います。

おまけです。

「ひきこもれ」(2002)より      吉本隆明
ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは、「価値」という概念にぴたりと当てはまります。価値というものは、そこでしか増殖しません。