何故に快楽が節せられなければならないか。僕はその理由がわからない。あらゆる思想家は納得される理由を示したことはない。唯彼ら自身の素質を示しただけだ。(断想Ⅳ)

ここで快楽と呼んでいるものを胎児期から乳幼児期までの母親からのエロス覚の備給、あるはフロイトの「リビドー」という概念に置き換えて「母型論」の内容に入っていきたいと思います。快楽を節するということをエロス覚の備給における抑圧の問題と置きなおしてみます。母親は我が子に食と性とを備給する。胎児期においてはへその緒を通して、乳児期においては乳を吸わせるという行為によって食を備給する。それは同時にエロスの備給にあたっている。だから食と性とはにんげんの始まりにおいては未分化の時期をもっている。特に胎乳児期においては母とは対象的な個人ではない。つまり「お母さん」ではなく、自分を包む雰囲気、宇宙そのものだ。そして胎乳児にとっては言語がない時期だから、すべてが無意識だ。ということは胎乳児のこころの世界は、母親も察することができず、胎乳児もとらえることができずそれ自体を生きるしかない「誰も知らない」世界として秘められている。
「母型論」のなかでフロイトの「幼児期健忘」という概念に触れている個所がある。フロイトは6歳から8歳ごろに幼児期健忘ともいうべきものが存在すると指摘した。フロイトによればこの時期までに乳幼児はたくさんの記憶の痕跡を蓄積しているにもかかわらず、うまく意識の注意をのがれて抑圧の力で無意識のなかにしまい込んでいる。これを幼児期健忘と呼ぶわけだ。またフロイトによれば大人のヒステリー症の健忘はこの幼児期健忘なしにはありえないとしているそうだ。この幼児期健忘というものが「誰も知らない」こころの世界をさらに痕跡の消し去られた海底に眠る遺跡のような失われた世界にしてしまうのかもしれない。
吉本によればフロイトが乳幼児の性の特徴として考察したところにはふたつの創見があり、そのひとつが上記の幼児期健忘の存在で、もうひとつは新生の胎児は「性的な激情の萌芽」を母親の胎内からもってくるという指摘だとしている。そしてその萌芽は乳幼児期にすこし発達しては大きな抑圧力によってしぼまされる。そしてまたこの抑圧力は性の自然な発達によって突破されることを繰返す。この屈折した過程を蓄積することで、乳幼児の倒錯や異常と呼んでいい性の表出は形づくられるとしています。ということは胎児期において食とともにエロス覚の備給というものが始まっていることを「性的な激情の萌芽」を母の胎内からもってくると言っていると思います。このエロス覚の備給がにんげんの身体のエロス覚の配置となるには段階があり、乳幼児期におけるエロス覚の配置はフロイトが肛門性愛と名付けたものに特徴づけられると思います。吉本のフロイト理解によれば、乳幼児はすべて肛門性愛をもち、また男児も女児も陰茎と陰核に、いいかえれば男性器に性感をもっているとみなせるとしています。性感というのは吉本の概念のエロス覚と同じものとみなしていいと思います。この乳幼児のエロス覚の配置が幼児性欲というものを決定づけているわけですが、ではなぜこの幼児性欲の段階では男児も女児も陰茎と陰核という外性器、いわば男性器にエロス覚が配置されるか。ここで吉本の身体についての考えを支えているのは三木成夫の発生理論ですが、それは長くなるので後回しにして、なぜこうしたエロス覚の配置になるのかは、すなわち乳幼児における「性の激情の萌芽」であるリビドーは男性的な本質をもっていて、それは男児女児に関わりがないからだと考えます。すなわち性という観点からみれば、乳幼児は男性的な性欲、リビドーをもっているということになります。乳幼児には男性と女性の分離は存在しないとみなすわけです。
そして乳幼児期の母と子の関係は、胎児期も含めて食と性の備給者としての母は能動的で男性的であり、備給を受ける子は男児であれ女児であれ女性的で受動的であると考えられます。しかし備給されるリビドーは男児女児に関わらず男性的な本質をもつ「激情の萌芽」と考えられる。男児女児に関わらず女性的である子が男性的な本質をもつリビドーを宿すという事態はひとつの大きな転換です。吉本はこの転換の段階には前言語状態から言語が獲得されていく過程が必須の条件だとみなくてはならないと述べています。
この言語を次第に獲得していく段階が普遍的に女性的である乳幼児が男児と女児に分化していく段階です。そして男児と女児という分化を前提にするがゆえに乳幼児の性的な倒錯や異常という概念が存在すると吉本は述べています。しかし倒錯とか異常というならば、乳幼児の日常の振る舞いは、すべて性的な振る舞いと分離することができないし、その振る舞いは性として異常とみなくてはならないと吉本は述べています。乳幼児の性としての発達の段階から捉えれば倒錯とか異常という概念は成り立たないということでしょう。
(ノ_・。)私はいま「母型論」の記述を抜書きしたりしながら、やっとこさっとこ解説を書いているわけですがこんなものを読むより「母型論」を直接読むほうが絶対いいわけですよ。そういっちゃあ身も蓋もないけどね。私としてはこの大洋期と吉本が名付けた胎乳幼児期の母に対して普遍的に女性的であり、なおかつ備給されるリビドーは男性的な本質を普遍的にもち、そして男女未分化な乳幼児が言語獲得の過程を通じて男になり女になりという分化を遂げていくという「誰も知らない」世界に尽きない興味を抱きます。ここにはにんげんの世界の秘密があるに違いない。ということはこの自分の秘密もそこにあるに違いないと思います。昨日、おととし私の始めたデイサービスの最初から利用してもらった老人が病院で亡くなったという知らせをケアマネージャーから聞きました。その男性は根津という東京の下町の人で、江戸っ子の粋な人でした。その人生が完結した。人の人生というもの、その人ということ、死ということ、それは仕事という枠から見ることはできません。その人にとっても誰にとっても「誰も知らない」世界がこの世のなかの他界のようにあり、そこから降り注いでくるものがあるのだということを理屈では分かりませんが、きっとあるのだという感覚を私はもちます。