正系主義が支配と搾取とを、人種学的および神学的論拠を以て理論づけることは、どこでも同じである(オツペンハイマア)(エリアンの感想の断片)

これはオッペンハイマアという人の言葉ですが、オッペンハイマアがどういう人か私は知りません。ただ吉本がこの文章を引用したのはやはり天皇制の問題について重要なことを言っていると感じたからだろうと思います。正系主義とは祖先に崇敬するべき始祖がいて、その正当な血統とか認可の授受とかを受けているのは私たちである、というようなことでしょう。その始祖はブッダでもキリストでもマルクスでもいいわけです。正系以外は異端ということになるわけですが、問題は正系か異端かということをあげつらう連中は、けして始祖自体を対象化して客観的な論理のまな板に乗せようとはしないことだと思います。
ここでいう正系主義を天皇制という意味で考えると、天皇という万世一系の血統を主張する一族の始祖たちをどう論理として考えられるかということが吉本の関心であったでしょう。吉本がその問題をどう考えていったかは「共同幻想論」に集成されています。天皇一族が日本列島を統一したのがいつの頃で、天皇一族がどこからやってきたのかは色々論議はあっても確定できない段階だと吉本は述べています。しかし確からしいのは天皇一族が日本と統一支配した時期が、稲作農業が広汎に行われ始めた時期と一致するということだとしています。天皇一族の始源の統一王朝は大和朝廷ですが、それは稲作の普及と一致するわけです。
天皇一族の始まりはまた文字で書かれた日本の歴史の始まりでもあります。その最初の書物は「古事記」で、これは天皇一族の神話であるわけです。ここで大きくとらえて問題になるのは天皇一族が統一部族社会として日本を支配し始めた以前の日本列島はどのようであったかということだと思います。吉本の考えでは天皇一族の統一の始まりは千数百年の以前であろうと推定しています。それに対して日本列島にその統一以前にあった部族社会は数千年をさかのぼることができると考えます。この考え方はすでに万世一系という太古の昔から天皇一族が日本列島を統一していたという考え方への否定です。天皇はある時期から日本列島に登場したにすぎない、したがって天皇に日本というものの文化とか歴史(文字で書かれる以前のものも含めた)のすべてを収れんさせることはできないということです。
ではその天皇一族以前の歴史をどういう方法で考えたらいいのか。それを吉本は共同幻想論で神話としての古事記日本書紀を原理的な考察をもってさかのぼれるだけさかのぼる読み込みをするという方法で行っているわけです。そこで提出される問題は多岐にわたるわけですが、その一つは天皇制の威力の根源はどこにあるのかという問題があります。吉本はその問題を端的に天皇制はアジアの極東地区の辺境国家に見られる「生き神様信仰」が制度化されたものの一つだと述べています。
神話というのはその社会の神話が書かれた時代の遥か以前のありようが記述されています。そして古事記には天皇一族の統一以前の社会のありようが読み込める。天皇一族が日本を統一したということは天皇一族がどこからやってきたにせよ日本各地の部族社会を統一したということを意味すると思います。その時期を国家の起源と考えるという一般的な論調に対して吉本は批判を行っています。吉本の原理的な幻想論の考察では、国家は氏族あるいは前氏族社会が部族社会に転化する段階に起源をもつものです。天皇一族は部族社会を統一したのであるが、国家の原理的な成立はそもそも地域的な部族の誕生にさかのぼると考えます。
天皇一族は一族の神話を作るさいに、自らの統一支配以前に存在していたローカルな部族社会における統治形態を神話のなかに取り入れて太古からの一族の支配を仮構したと考えられます。そうしなければ統一されたローカルな部族社会がその神話を自らの神話であると受け入れることができなかったでしょう。では部族社会、統一部族社会の段階での統治のあり方、それは天皇の支配のあり方でもありますが、その本質は何か。それは部族以前の氏族あるいは前氏族社会で兄弟姉妹の性行為のタブーが確立されることにあると吉本は考えます。この近親姦のタブーを前提に兄弟は自分の血縁共同体を離れて他の血縁共同体、つまり他の氏族の女性と家族をつくることになる。
しかし人間の幻想性のあり方から考えると、兄弟姉妹の間には性行為が禁止されても幻想としてのエロスという性としての親和性はたとえ両親が死んでも継続する本質をもっている。したがって血縁共同体と他の血縁共同体の紐帯として、兄弟姉妹の性の幻想性が存在し、それは時代を経るとともに拡大する。それが氏族が部族に転化する基盤をなすとみなします。またその転化を国家の始源と考えるわけです。そこで統治形態としては日本においては兄弟が現実的な政治権力を握り、姉妹が祭儀的な宗教的な権威をもつという形態が考えられます。卑弥呼もアマテラスもこの姉妹が祭儀の威力をもつ象徴であり、アマテラスの弟のスサノオは兄弟が現実的な統治権力を司る象徴だと考えます。すると天皇というものの威力の根源は天皇一族が統一する遥か以前からこの列島に存在した姉妹による祭儀の宗教的権威に由来すると考えることができます。その権威は巫女としての女性が自然と直接の交感をおこなって神々のお告げを得るという形になるのでしょう。この生身の女性の巫女的なあり方が生き神様信仰というものの起源なのだと思います。
この土着的なローカルな部族社会に存在した祭儀のあり方をどういう形でか自らの一族の神話に吸収し天皇世襲祭儀に取り入れていったのだと考えます。
古代にさかのぼる歴史を幻想性という視点を加えて考察し、それを原理的な方法にまで抽象して、やっと天皇制というものを無化する課題の端緒にたどり着くというのが共同幻想論です。それは私たちの社会と私たちの考え方感じ方に今も残る未開性と宗教性を相対化することです。