問い「(3・11、震災から5ヵ月が経って)原発事故によって、原発廃絶論が出ているが」吉本「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴なう。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは人類をやめろ、というのと同じです。だから、危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み

福島原発事故が起こり、まだ生々しくその恐怖と被災地の人々の悲惨への思いが心を占めていて、その結果世界的に原発廃絶の論調が高まって実際にドイツのように全廃を決定する国家も生まれている、そういう現状で吉本は上記のように原発廃絶論を批判している。こうした意見の表明がどういう反応を生み出すか吉本は知らずに言っているわけではない。私の見た政治系のネットの言論サイトでも、吉本は86歳になって耄碌してとうとうとんでもない迷妄を言い出したというような感情的な反感がたくさん書き込まれていた。しかし吉本は耄碌などしていないし原発事故が起こってから上記のような見解をもったわけでもない。今から30年ほど前に反核運動という国際的な市民運動が組織され、日本でも300人ほどの文学者つまり大半の文学者が、反核すなわち核兵器の廃絶に反対しましょうという署名活動に署名したという事態があった。そして反核は反原発と理念的につながっていった。こうした文学者と出版社、新聞社が主導し一般大衆がおおきく反核原発という主張に同調していった渦のなかで吉本は単独で異論をとなえた。それは「反核異論」という著作や「情況への発言」という文章にまとめられている。反原発という論議に対する吉本の異論はその時に徹底して公開され、そのことによって吉本はさらにジャーナリズムの主流から追放され、左翼的な物書きや読者になかに多くの反感と敵を作ったと思う。今回の日経新聞のインタビューはそういう流れのなかにあり、吉本は現在のような一番異論を披歴するのにキツイ時に単独で意見を公開するという思想的態度の一貫性を貫いているのだ。
物事というのは分けて考えることができなければならない。物事に含まれる位相のちがい、側面の違いというものを分けて考えることができず、異なる問題を混同したり無理にひとつの結論に収れんさせようとすれば誤るし、その誤りを政治的に扇動し組織しようとすれば反動に陥る。
吉本の原発に対する見解は原発問題のもつさまざまな側面をとりあげて検討することができている。それをかいつまんで説明してみる。
ひとつは今回の事故で欠陥を露わにした原発の安全性という側面だ。原発というのは他の科学技術装置に比べて何重もの安全設計がなされている。チェルノブイリのような大事故が起これば再びそれが起こらないようにまた実験が繰り返されて安全設計が追加される。しかしやはり完璧な安全設計というものはありえないので、チェルノブイリ以降でもスリーマイル島の事故も福島の事故も現実に起きた。今回の事故もその真の原因が追究されそれを乗り越える安全設計が論議されるべきであると吉本は考えているのだと思う。この考えに反発をする人が多くいることが予想される。あんな怖ろしい事故を引き起こす可能性が少しでもあるのなら、もういっきに廃絶するべきだと考える人々だ。
ここから問題の側面は科学技術とは何かという抽象性をあげた問題に移行する。かって科学技術者であった吉本は科学技術の問題は科学技術で解決するしかないという鉄則を述べている。科学が自然の解明を進め、その過程で巨大なエネルギーを作り出す科学技術を進歩させてきた。それは事故の危険性も増大したということでもある。しかしこの科学技術の進歩を後戻りさせることはできないというのが吉本の、たぶん多くの現在の原発廃絶論者との見解の違いの根底だ。
吉本は東電から金をたくさんもらってきた政治家や御用学者ではない。だから原発を促進しようという立場にない。しかし原発を廃絶するべきだという根拠もないと考えている。
ただまた別の問題の側面もある。原発が供給する電力を原発よりも危険性の少ない代替エネルギーの発明によって解決していくということもありうるという側面だ。あるいは原発をやめるなら原発以前のエネルギーである火力、風力、水力といった代替エネルギーを採用することになるだろう。しかしそれらもまた科学技術であることは同じだ。自然そのものではない。自然に対して人間が働きかけ引き出したエネルギーであり装置である。そこにはやはり制御の問題や安全設計の問題がある。科学技術を超えるものも科学技術でしかありえない。
こうした見解からさらに抽象の度合いをあげていけば、人間の本質とは何かという問題と歴史、あるいは文明史とは何かという問題に移行する。吉本によれば科学が核エネルギーを解放したということは、即自的に核エネルギーの統御(可能性)を獲得したと同義である。また物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している、これが核エネルギーにたいする本質的な認識だと述べている。物質の微細なレベルでの解明は宇宙の解明につながっていて、それを果てしなく解明したいという衝動は人間の無償の衝動すなわち人間性の本質であるものだ。その人間の人間的本質が文明を生み出し文明史を積み重ねてきた。そのことが人間にとって幸せなことかどうかはわからない。アジア的な段階やアフリカ的な段階にあった人類より現在の高度資本主義段階にある国家に人類のほうが立派かどうかはわからない。しかし幸不幸にかかわらず人間は人間的本質を貫くしかありえない存在で、それを上記のインタビューのように原罪と呼ぶこともできる。
こうした原発をめぐる科学技術の問題はさらに異なる側面から取り上げなければならない。それは理科系の技術者のような人たちがえてして苦手な政治経済、あるいは地域住民の利害という問題の側面だ。原発は国家的なプロジェクトとして遂行され、巨大な利権を生みだす。その背後には国際的な資本による日本への支配力という側面が展開される。現在は福島の事故を受けて、この日本の支配層と背後のアメリカやヨーロッパの日本への働きかけが日々激化している状況だ。こうした側面での吉本の基準は地域住民の利害を第一義として考えるべきだということだ。そして原発についての考えを地域住民が個人としてもつ限りはそれは尊重され、その考えに沿った原発への対処も尊重され、原発を推進する政府や東電から保証されるべきだということになる。しかし原発への対処が一つの理念に統合され、政治運動、市民運動として組織される場面では、かっての反核運動に対するように吉本は単独で異論反論を公開するだろう。もうそんな気骨と蓄積をもった思想者は数少なくなってしまった。