無限に下降しようとする精神は、形式的なもののうちに虚偽を見つけ出すだらう。即ち精神の停滞を拒否するだらう。(断想Ⅳ)

無限に下降しようとする精神というのはたぶん倫理的なことを掘り下げるということだと思います。形式的な倫理というもの、たとえば通俗的な道徳とか多数派的な社会観に同調して、そこで思考を止めてしまうのではなく、そこに納得できない虚偽を見つけ出してさらに掘り下げて考えるということです。
倫理というのは共同体を基盤として登場するものだと思います。そして倫理の起源は宗教です。宗教は共同体を基盤として共同の幻想として成立するとともに、個としての人間の個的な幻想に浸透するという二重性を持つのだと吉本は述べています。その二重性が宗教が人類の文明のすべてをおおう歴史段階をもった理由なのだと思います。宗教はやがて地上的な利害に接する部分から法に変化していくのだと思います。しかし法の母胎としての宗教は倫理の起源として大きな影響を現代でも持ち続けています。
西欧の宗教はキリスト教です。西欧の文明はキリスト教という宗教を倫理的な起源として大きくおおわれている。そして西欧の文明の影響を受けるアジアの国においても、多かれ少なかれキリスト教という倫理は社会倫理と個の倫理の二重性の迫力として存在するといえます。西欧の文明を無視できないかぎりキリスト教という倫理の起源を無視することはできない。では倫理的なことを無限に下降して掘り下げるというときに、キリスト教やその経典である聖書というものはどのように対象化されるか。その問題において最大のキリスト教の批判者である思想家はニーチェなのだと思います。
吉本のニーチェ理解を白水社版の「偶像の黄昏/アンチクリスト」(フリードリヒ・ニーチェ著)の吉本の書いた解説からたどってみます。この解説は短いですが凝縮力がすごくて、解説というよりニーチェに対する吉本の渾身の思想的な対決となっています。吉本にとって最も衝撃であったニーチェの言葉は新約書に触れた言葉で「福音書がわれわれを導きいれるあの奇妙な世界――まるでロシアの小説にでも出て来そうな、社会の屑や神経病や『子供のような』白痴の群れが密かに密会をしているように思える世界」(『アンチクリスト』)という言葉であったと述べています。吉本は当時新約聖書を真摯で敬虔であることを強いる力をもった書物として読んでいたさなかにこのニーチェの言葉に出会い、人生最大といえる思想的な衝撃を受けます。そしていったんニーチェによって視線を目覚めさせられると、ニーチェの言葉を怖ろしいほどの真実の言葉として迫ってきたといっています。こうした社会的な屑や白痴の群れが小さな不徳について大騒ぎをやらかしている卑小な世界というふうに新約聖書を見るためには、ニーチェの直観から始まって、西欧の2千年の文明のすべてを否定することができなくてはなりません。しかしその否定はニーチェが2千年を生きるよりほかにどうすることもできない。吉本の理解では、ニーチェはそこで歴史、少なくとも因果の連鎖としての歴史を否定します。因果の連鎖としての歴史を否定するというのは現実の動きには因果もなければ目的もなく、ただ偶然の出来事があるだけだとみなすことです。その考えのなかでは人間というものの観点が一変します。人間の価値を理性や道徳という内面的なものとみなす倫理的な起源を否定して、本能、感覚的印象、歩行の動きなど、刹那的な、表面的なものと思われてきたものに最大の価値を与えることになります。すると人間というのはどういうものになるのか。人間は生の本能という運命にしたがって生きるもので、もともとそうである生命のかたちを本来とするものだとみなします。人間にはだから目的を設けたり、現実が目的をもつかのようにみなすことにはなんの意味もない。人間は「必然であり、一片の運命であり、全体に属し、全体の中にある(ニーチェ)」ものだと考える。つまり人間の生は偶然と同じことであり、裁き、測り、比量し、議論するものなど人間の生や歴史にはなにもない。
西欧の文明の倫理的な起源はユダヤキリスト教であり、それは虐げられた貧者と悲惨な者たちに加担する倫理であって、それがなかったら社会改革の論理や理念など生まれなかったであろう方向づけられた思想の秩序である、そしてニーチェはその西欧文明の母体の思想、倫理の起源を初源と根底から否定してみせた思想家だと吉本は述べています。
ニーチェのその根底的な否定はどこからやってきたか。吉本はその否定の核はニーチェ自身の無意識の核に秘められていると考えます。ニーチェは感覚、本能、生命の肯定、いわば健康な生命の表層を擁護している。しかしその擁護の沸きでてくるところはけして表層ではなく、深い無意識の地層からだと吉本は述べています。ある場合には新約聖書にあらわれるユダヤキリスト教的な信仰や道徳の源泉よりももっと暗い深部から発生してくる欲望の声のようにみえると吉本は述べています。
ニーチェは自らの無意識の核にある生に対するNOというものを源泉にして、そこから生に対するYESを擁護する思想を作り上げた。その過程で最大の壁として立ちふさがるキリスト教を倫理的な起源とした二千年にわたって積み重ねられた西欧文明を根底的に否定しようとした。この問題はニーチェの著作の翻訳を通しても伝わってくる文体の迫力、その真実らしさと激しい官能性と攻撃の激烈さと深い井戸といった魅力とともに、いまも生きている思想的な遺産なのだと思います。資本主義的な福祉の理念であれ、それに対抗する共産主義の理念であれ、やはり西欧文明のユダヤキリスト教的な倫理のなかにあります。わたしの働く老人介護という分野の仕事もまた同様に西欧文明のなかで連綿として積み重ねられた社会思想の内側にあります。もしこの圧倒的に巨大な倫理と文明と思想の堆積に、ふと疑問をもち異和感を感じたときそれは通常そのままどうすることもできずに立ち消えてしまう瞬間になるわけですが、その異和感ニーチェの思想の入り口につながっていると私は考えます。