法といふものが今日までのやうに、支配者の特権を無意識的に正当化するために存在するような時代が、永久に継続するものだらうか。無意識的であるが故に、支配者が慈悲者であらうと無かろうと関はりないことで、これが打開せられねばならないことは常に正しいことである。疎外せられてゐる人間性を矢鱈に導入して法の正当化を主張することは正しくない。(〈少年と少女へのノート〉)

疎外せられている人間性を矢鱈に導入して、というのは分かりにくい文章ですが、要は法というものは支配者の特権を無意識に正当化するものであるから、法の枠のなかだけで考えてもしかたがないからその支配構造自体を問題にしなければならないということだと思います。たぶん「疎外せられている人間性
というのは貧しい人とか障害のある人とか老人とか子どもといった存在のことで、そういう福祉や貧者救済の法律を作るように働きかけ一定の成果をあげることができるならば、今の法制度のままでいいじゃないか、という体制内改革という考え方を批判したいのだと思います。それは支配者にお慈悲を乞う庄屋の姿勢みたいなものにすぎないということでしょう。そこには法とはいかなる本質を持ち、国家とはどのような起源をもって現在に至っているかという思想がない、ということが不満なのだと思います。そして吉本は他人に期待してもしかたがないので、こつこつと自分で法の本質を考えていったわけです。
吉本の「共同幻想論
を読むと柳田国男の「遠野物語」と「古事記」をテキストとして限定して、日本の原始的なあるいは未開的な共同の幻想のあり方から、国家の起源である共同の幻想までを考察していることがわかります。人類が共同体とか集団生活をしはじめたという起源は、人類とともに古いというくらい太古にさかのぼります。ではその太古からの共同体はいつ国家になったのか。そして幻想性というものもまた人類が他の動物とは違う幻想性を生み出した起源は、人類の起源にさかのぼります。そして原始的なあるいは未開的な共同の幻想というものが、いつ国家といえるような段階の共同幻想に転化したかということがすなわち国家の起源の問題と考えられます。それは国家というものの本質が共同の幻想性にあると考えるからです。
吉本は国家のもっとも原始的な形態は、村落社会の共同幻想が血縁的な共同体から独立にあらわれたものであると考えます。つまり国家以前の共同幻想というものは、村落社会の共同幻想しか存在しなかったわけで、村落社会の共同幻想というものは家族あるいは親族の共同性が生み出す共同幻想であると考えます。ここで国家というと、どうしても現在の国家やそうでなくとも映画などで見た古代の国家を想像してしまいますが、吉本がここで起源にさかのぼって想定している国家というものは、もっともっと時代をさかのぼって幻想性としての国家の発生というものを意味しています。ふつう国家の起源というと古墳であるとか金石文とかの考古資料が発見されたということから想定していきます。つまり国家組織というものがあったらしい物的な証拠が掘り出されたりしたことを根拠に国家の起源を考えようとします。しかし吉本は国家というものの本質を物的なものと考えない。あくまでも幻想性のなかに本質があると考えます。するとふつう古代の国家がこれこれの考古資料があったから存在したらしい、という遥か以前のところに国家の起源を想定することになります。たとえば日本の最古の文献的な国家資料である「魏志倭人伝」には日本には邪馬台国があり卑弥呼という女王が支配していると書かれていて、この邪馬台国が通常は日本国の起源のように言われますが、吉本によれば邪馬台国という国家の段階は起源的な国家からすればずいぶんと時代を経た新しく高度な国家であるということになります。そして考古的な資料があろうとなかろうと、あるいは考古的な資料が単に生活的な資料、土器とか狩猟や漁労の道具などしか発掘できないとしてもその時代に幻想性としての、本質論的な国家が存在しなかった根拠にはならないと考えます。なぜなら国家というものを物的な構成体でなく幻想性に本質があると考えるからです。
幻想性としての国家というものはだから心の中、それも現代においてふつうに心として考えるイメージは個人の個としての心ですが、ここでは原始的な段階における共同性の生み出す共同幻想と一体になった心の問題です。そうした原始的な心のなかで家族や親族の共同性の生み出す幻想を離脱した幻想が現れる。その独自な水準をもった幻想が共同体の共同的な心に生まれ始めた段階を国家の起源とみなします。そうすると文献もないし地面をほじくりかえしてもなにも発掘されない時代をどう考えたらいいのかということになります。そこで理論というものの重要性があらわれてくるわけです。もはや理論的な想定をおこなう以外に国家の起源、人類の幻想性の起源を考える方法はないわけです。
国家以前の原始的な村落共同体、家族親族だけが世界であるような時代の共同幻想はどんな軸をとって理論的に想定したらいいか、そしてそういう家族、親族という血縁共同体は理論的にどのようにしてその共同性を超える共同幻想、つまり起源としての国家を生み出すか、その理論を吉本はひとつひとつ、世界で吉本だけしか手をつけていない領域で観念の血をにじませて組み立てているわけです。それが「共同幻想論
です。面白いと思えればこれほど面白いものはどこにもない。ぜひ読んでみてください。面白いとはどういうことかわかるからさ。