経験を解析することは、現実を解析することと同義だ。誰もこれを汲み尽すことは出来ない。(原理の照明)

人を支配する方法というのはいつも自信を失わせることにあるんだと思います。自信を失わせたのちにわれらが支配に服することだけにおまえの自信を回復する道があると慈悲深く指し示す。それが支配の古くて新しい方法ではないでしょうか。支配したがる、仕切りたがる、自分たちだけがいいめを見たがる奴らは元気な人間が嫌いです。自信のある底辺からのし上がる人間が嫌いです。なぜならそういう人間は奴らの他人のものを奪うことで成り立つ支配構造を倒していく可能性をもっているからです。では元気のもとはどこにあるのか、それは自分の経験という自分だけがもっている宝物、自分だけの深い井戸から無限に価値あるものを汲みだす観念の作業にあるんだと思います。賢いということは経験から学べるということです。だから吉本は大衆は大衆的な原像のなかに自分を見出すということを、また政治の課題としてはそうあるように突き放すことを主張したと思います。それは大衆の元気というものを愛するからです。自分の人生はつまらない味気のないもので、そんな自分はつまらない価値のない人間だと思っているそこのアナタ。それはなに者かにひれ伏してケツの毛まで奪い去られる支配構造のいいようにされ始めてていることだと疑ってみたほうがいいと思いますよ。もっとひきこもり、そのつまらない味気のないエリートになれない、もてないおどおどして友達のできない自分の人生ってものと真正面から対話してみるほうがいいと思う。そして正直にはだかになって自分のちいささを表現すればいいんじゃないでしょうか。ちいさいっつったてね、あんたが味気ないからそれはこの現実が味気ないということで、だとすれば俺もあいつもこいつもみんなぶっちゃけ味気ないんですよ実は。そしてそんなふうに周囲が見えれば頭がスッキリします。そのように自分の経験から解析して現実が分かることが元気のもとです。分からないことがもやもやした不安のもとであるように。吉本もそのようにして現実を見出しています。けして特別なことをしているわけじゃないんだ。

おまけです。
共同幻想論」 全著作集のための序より           吉本隆明

本稿(共同幻想論のこと)が発表されてから四、五年のあいだにさまざまな批判がなされたが、その批判は、おおむね、本稿のような試みが、一種の観念論への踏みはずしに属するものだという線に沿って行われた。もっとひどいのになると、自己の能力にあまるために、本稿のモチーフを把かみとることができず、わたしの著作は、衝撃力を失っているという批判にまで、陥ちこんでいるのもあった。そうなれば、<無智につける薬はない>とでもいうよりほかない。どんな過渡的な社会でも、無智が栄えるためしはない、というのは、自他をともに束縛する鉄則である。どうして理解をするための労力と研鑽を惜しむものに、衝撃を与えることなどできようか。