思考を表現するために技術が必要だ。技術なくして表現が成立つといふ一つの迷蒙。だれもその迷蒙を信じてゐるものはないだらうが、実行してゐるものは稀だ。(原理の照明)

思考を表現するものは音楽、絵画、演劇、学術論文などいろいろありますが、ここでは文章や詩の表現のことを指しているだろうと思います。言葉の表現には技術がいる。技術とは比喩とか韻律とか写実とかイメージとか構成とかさまざまな要素が考えられます。そうした技術は文章を書くと無意識のうちにも実行するものだと思います。吉本がここで言いたいのは表現の技術を実行するものがいないということではなく、表現の技術の原理的な把握を行って、自覚的に技術を実行するものが稀だということだと思います。
文学としての表現を実行しようとすると自分の心を見つめるかんじになるわけですが、そういう状態でひっかかってくるのは、自分の心になんども繰り返して浮かび上がってくる観念やイメージです。そういうしつこく心につきまとうものの中に自分の心の秘密があるように感じられます。
その都度感じて過ぎ去ってしまう印象ではなく、幾度も繰り返して自分にやってくるように思える観念、イメージ、記憶、夢というものはなんであるか。
ひとは自分がこうして生きてきたということを語ります。老人介護の仕事をしていると老人たちがなんども繰り返して自分の生きてきた人生を語るのを日々聞くことになります。老人たちが語る自分の人生はきっとその人の胸にいくども浮かんでくる体験の思い出をつないだものだと考えられます。だからその人生の話はかれらが作ったストーリーでもあります。自分の人生はどのようなものであり、どのような意味や価値があったかという自分自身への解釈です。同じことをまだ老人には至らない老人予備軍であるわたしもやっています。そしてうまくストーリーが作れない感じがあります。人生のいたるところにほどけない結び目があって、流れるようなストーリーが作れない。だから自分の人生がなんであり、どういう意味や価値があるのかが淀んだように了解できない感じです。人生はいたるところで袋小路に入り、登りきれない坂の途中で止まり、方向のわからない山中で迷い、しかし時の流れが押し流すままにいつのまにかそこをそのままにして次の時空に移っているというそんな感じ。
くりかえしくりかえし自分を訪れるものとして夢を考えてみます。吉本は心的現象論序説のなかでくりかえし思い出す夢についての考察を行っています。昔見た夢をくりかえし思い出すということはそもそもその夢を目が醒めても覚えていなければ成り立たないわけです。醒めても覚えていてその後も何十年にもわたり覚えている夢とは何か。この問題についてフロイドが重要な見解を述べています。フロイドは何十年も前に見て今も覚えているような夢について、幼児期に形成される無意識という心の奥深くにしまいこまれた幼児の満たされない願望だと解釈している。そして吉本はこのフロイドの解釈に批判を行っています。吉本が考える昔見て何十年も覚えている夢というのは、まず夢を覚えているとは何かという問題である。夢を覚えているというのは吉本の考えでは入眠時の心的な表出と覚醒時の心的な領域と接触していることである。だから覚えている夢は入眠時と覚醒時の結節である。フロイドの考えは吉本によれば幼児から成人に至る精神の発達を木が年輪を重ねるように、あるいは積み木を重ねたように積み重ねられたものとみなしている。だから幼児の無意識は一番奥にあり、少年期の前意識はその上部にあり、青年期の意識はその表層にあると考える。しかし吉本の構想する心的な領域のモデルは積み木のように心の発達を時間的な序列として実体化して考えるものではない。吉本の心的領域のモデルは現在に接して蜘蛛の巣のようにいまここにあるものだ。過去も未来も奥底にあるものも表層にあるものも蜘蛛の巣のように現在のなかに外的な環境に接して存在している。その蜘蛛の巣を過去に引っ張って歪めたり、外界との接触点から引っ張って歪めたりせずに、蜘蛛の巣のありのままの形で理論に移し替えたいのだと思う。だから蜘蛛の巣を引っ張る還元操作というものを排して、蜘蛛の巣のままで考えとおす概念を創出しようと悪戦苦闘している。
夢というものはとても重要だ。夢はいいかえれば入眠時の心的な表出であり、その背景に入眠時の心的領域が想定される。眠っているとか白日夢を見ているときの心的領域は、文学が世の中の役に立たないように役に立たないが、にんげんの心の領域を拡張して考えるために不可欠な要素に違いない。文学表現には白日夢のような入眠状態、半覚醒状態に自分を導いて表出を促す技術がある。それも夢だと考えると、文学もまた醒めてのち覚えている夢の一面をもっている。そして結局なにがしたいかといえばこの現在に接して生きているにんげんの心についての原理的な把握がしたいわけだ。一般理論の創出といってもいい。そんなものを作れたとして何がしたいのか。それは人それぞれのモチーフにかかわることで面々のお計らいに属することであるだろう。わたしにとっては人が生まれて育って現実のなかにあって、つきまとう苦しみというものの本源をその苦しむ人じしんが知るべきだという思いがモチーフだ。私は老人介護の仕事をしているわけですが、それは生涯の終わりに立っているひととつきあう仕事です。生涯はいやおうもなくいつか終わっていく。それは仕方がないとしても、その人それぞれに秘された認知症となっても秘され続ける見えない聞こえない苦しみまで土に還していいのだろうか。その苦しみというものは本来どこにも還元しえないものとしてある心の蜘蛛の巣を、地上的な利害に、あるいは医学的な理論に、あるいは政治的なイデオロギーの理念、宗教的な理念に還元してしまった結果ではないだろうか。蜘蛛の巣を蜘蛛の巣のまま生かすという拡張されたにんげんの考えが確率されない限り、きっとどっちかに心が引っ張られ、歪められ、やがてはそれを自ら受け入れて苦しんだ生涯の傷はくりかえしくりかえしさまざまな人の形で続いていくのだろうな。まったくもって腹立たしいことです。どう思いますあなた。