生存するとは、精神にとつて判断することを意味する。判断に行為を従はせること。一般にはこれ以外に生存の図式は見つからない。(〈建築についてのノート〉)

これはこの文章に続く部分を読まないとよくわからないんですよ。飯を食うとか眠るとかの生きていく必要が生存するという言葉の意味です。そういう意味の生存のためにはにんげんの精神は判断し行動するということです。するとそこでは判断と行動はセットになっている。生きるために生き続けるために絶えずにんげんは判断し行動する。しかし生存するのに必要なことだけがにんげんの生のあり方ではない。また生存するのに必要な判断だけがにんげんの精神のあり方ではない。だとすると生存と直結しない精神のあり方とはなにか。それは精神が精神自体で増殖し、無限に拡大し深化するような領域です。思想とか哲学とか芸術とかに表現される精神の領域だといえるでしょう。こうした生存に直結しない無限増殖の精神はけして行動に直結しないと吉本は言っています。そういう精神は無限に抽象作用を行って生存や行動に関わらない観念の世界を構築していきます。吉本はなぜそういうことにこだわるのか。それは戦後の知的な流行であるロシア的なマルクス主義の哲学である唯物論が気に食わないからです。史的唯物論がにんげんの精神的な産物のすべて、文明とか文化というものを生産手段の発展とか経済機構の問題に従属させて考えることが気に食わないんだと思います。マルクス自身がそう考えたわけではない、というのがロシア的に変形されたマルクス主義に対する反感としての、吉本のマルクス理解でした。
ではマルクス自身は精神的な産物というものと経済的な基盤というものとの関係をどうとらえていたのか。
吉本のマルクス理解ではマルクスは人間の歴史のすべてが経済社会構成に従属するというような雑な考え方はしなかった。人間が自然に対して働きかけて作り出す歴史が自然史と同じようにみなされる部分は経済社会構成の部分だけだと考えた。つまりこの初期ノートの文章とつなげて考えれば生存のために判断に行為を従わせるという部分が経済社会構成だとすると、それ以外の精神の無限増殖の自己運動の部分は自然史の延長とみなすことはできないということです。ということはにんげんが集団的な共同意志に基づいてつまり政治として働きかけて効果の発揮されるのは経済社会構成の部分だけだと考えたほうがいいということではないでしょうか。それ以外の精神の部分に政治的に働きかけ改変しようとするあらゆる試みは無効だということです。有害だといってもいい。それは結局経済的な豊かさというものを目指し、それを達成することがその部分だけが政治の有効性だということだと思います。それ以外の社会的な要素は政治的に関わるのではなく、地域住民や個人の自主的な解決にゆだねるほうがいいと思います。
今般の地震津波放射能事故についても政府が政治として行うべきことは経済社会構成としての対策のみであって、被災地の人々の安全性と補償、そして経済的な復興以外のことに政治的な支配力を発揮しようとしたときには拒否すべきものだと考えます。それはなにより原理的に政治の関わりうる領域ではないからです。つまり政治が精神の個別性や無限の自由性というものに管理や支配の手を出そうとする、それは必ずするわけですが、それは拒絶するべきものだと思います。政府というものの意味は経済を豊かにし、それが大衆に豊かに分配されるかどうかということにしかないわけで、それ以外のことはすっこんでいてもらうしかありません。必ずこの大災害を利用した社会ファシズムが登場し、精神の自由性を押しつぶそうという一見善意の見せ掛けをとった政治的な動きが台頭すると思います。それを拒絶できるかどうか、政府の行うことを豊かさとその公平な分配という尺度で厳密に判定できるかどうかが今後の課題だと思います。アジア的な支配と服従という段階を越えて、政治とか政府というものの役割を限定し、その限定のなかで判定し、ダメなやつらはリコールできること。そしてそれ以外の社会的な、精神の自由性の関わる領域については自分で、あるいは自分たちで解決する能力を作ること、それが私が考えるいまよりはマシな世界です。