夜になると雨は止んだ!たつた一本しかない煙草に火を点ずると、其処には言ひようもない憩ひが感ぜられた。今夜僕は疲れてゐる。やがてすべては時の前に空しい残骸を晒すだらう。僕にはそれが別に悲しいとも何とも思はれない。僕にひとつの己れを賭ける仕事があれば、それだけは炬火のやうに燃えて燼きないことを願ふだらうに。(〈少年と少女へのノート〉)

この文章は読んだ通りのものだから特に解説はいらないと思います。ただここで言われている「ひとつの己を賭ける仕事」という仕事の意味が生活収入を支える生業(なりわい)よりも広い意味で使われていることを指摘すればいいだけだと思います。吉本にとって己を賭ける仕事は、この世界を根源的に考察する仕事でした。それが生活費になれば生業ですが、お金にならなかったとしてもその執着は維持され仕事は突き進められたでしょう。実際、吉本は個人誌(「試行」)で何十年にもわたって原稿料のでないところで一番重要な原理的な論文を書いてきました。それが生活にとって精神にとってどんなにキツイ行程であったとしても、「炬火(かがりび)のように燃えて燼きないことを願ふ」という気持ちは続いていたと思います。
これ以上特に解説することもないので、こじつけっぽくなりますが好きなことを書かせていただいてお時間を頂戴いたします。この文章に限らないんですが吉本の表現された言葉の奥に感じられるのはなんともいえない暗さです。「夜になると雨は止んだ!たった一本しかない煙草に火を点ずると、其処には言ひようもない憩ひが感ぜられた」という一節は若いころに読んだのに記憶に残っています。とはいえ雨が止んで、タバコを吸ったら憩いを感じたということにたいした意味があるわけではないでしょう。それでもなんかこういうところでピンとくるといいましょうか、感情移入するといいましょうか、文章の奥に暗さを感じその暗さが嫌いではないというのがたぶん私が吉本の本を読み続けた契機なんだと思います。吉本も「硝子戸の中」という作品で初めて夏目漱石に出会った時「暗い立派さ」のようなものを感じ、そこから漱石の作品を読み続けたと書いています。私が吉本を読んでハマったのもそういう暗い立派さの感じだと思います。
立派であるかどうかはともかく、なんで暗さに惹かれるのでしょうか。暗いっていうのはどういうことでしょう。私の若いころ(30年以上前(/−\))「ガロ」という漫画雑誌がありまして、安部慎一という漫画家がいました。このアベシンの漫画が私はとても好きで古本屋で単行本を捜し歩いたこともありました。安部慎一の漫画というのは当時の下宿に住む若者が登場する私小説のような作品が多いのですが、淡々とした話しで特にドラマティックなことが起こるわけではない。ただいいようもなく暗いんですよ。なにがどうしたから暗くなったというのではなく、なんというか宿命的に暗い。根っから暗いわけです。私は不思議だった。なにがあったからという因果関係がなさそうなのにこの暗さはどこから漂い、そしてなんで自分はその暗さに惹きつけられていくのだろうかと。吉本の持つ暗さもこの宿命的な暗さだと思います。夏目漱石の暗さも、太宰治の暗さもこの宿命的な暗さだと思う。吉本でいえば、戦争体験があったからとか、家族に不幸があったからとか、恋愛が苦しかったからとかという因果関係のある暗さの理由を越えて、もっと根っこから漂う暗さがあると感じます。その暗さを「うつ」という概念と結び付けてみたいと思います。暗さはそのまま「うつ」ではないとしても、どこかに同じところと異なるところがあるはずです。
「心的現象論」の本論(序説ではない)のなかに「うつ」について考察されている部分があります。難しくてわからないことが多いですが、興味があって理解できそうなところをつまみ上げますと、この世界を個人であるにんげんが把握する場合に、自分の身体がいまここにあるという自分の存在性の把握が根源となると考えているんだと思います。この原理的な考察に到達するまでに論理の道筋があるわけですが、それはもう心的現象論を読んでください。読んだほうが分かりやすいから、俺なんかが解説するより。
自分自身が確かにここにあるよ、存在してるよという存在性の把握というものは、関係と了解というふたつの要素に分けて考えることができます。関係と了解の概念も正確な理解は心的現象論を読んでいただくとしてですね(-∧-)とりあえず大雑把に関係というのは自分という身体、自分という意識に刺激として入ってくる感覚とか感性とか観念とかのすべてと考えてみます。では了解とは何か。了解とはそうした刺激のいっさいをここに自分があると体得する仕方であると考えてみます。大雑把ですいません。そして「うつ」とはこの了解において、過去から現在へと了解の時間が流れ、現在である自分という存在性に達することを正常と考えるとすると、逆に現在から過去へ流れ、そして了解が過去に貯まる、過去に集積される、そしてその過去にうず高く積み上げられたものがそのまま現在の存在性につながることだといっていると思います。何をいってるか分かんないでしょう?すいませんね。私もよくわかんないで書いてるんだから分かるわけがないよ。しかしなんとなくわかるんですよ。
現在から過去に了解の時間が流れるということ自体は普通のことです。それは追憶であり回想であり過去に記憶をさかのぼることですから。しかしその追憶の場合には了解は現在から過去に遡り、そして原過去(幼児期とか胎児期とか)に向かうわけです。そして再び過去から現在へと了解の時間を辿って現在の存在性に戻ってくるわけです。それはふつうに誰もが行う。しかし「うつ」は回想や追憶とは違っていると吉本は考えます。「うつ」においては、ひとつひとつの記憶を追憶や回想で取り出すのではない、そうではなくて現在の自分に対して関係として入ってくる刺激のいっさいを過去の時間に送り込むのだと思います。だから個々の過去の事実や記憶が現在と関わるのではなく茫漠たる「過去感」というべきものが現在の存在感に直結します。
たとえてみればアリジゴクのように現在に関わるいっさいが時間の斜面を滑り落ちて底にある過去の時間に積もるわけです。すべてが過去なのに、その過去感をもって現在の自分とみなすわけです。だから自分というものは薄れていきます。過去というものはアリジゴクの底であって、どこにも展開できないからです。もしもあれをしなかったらとか、なんであんなことになったのかとか、どうしてあんなことをされたのかとか、いずれにせよもはやどうしようもない過ぎ去った変えようのない、別の意味でいえば葛藤のない安全な逃避所です。だからそのアリジゴクに囚われて、囚われたまま現在に関わらざるをえないとすれば、現在の自分はイキイキとした存在性が失われ、暗いどんよりとしたやる気のないイライラした絶えず泣いているような卑小な現在の存在性、さらに進めば非存在性、もっと進めば自殺による無存在へと進んでいきます。
私の解説が大きくは間違ってないとしてもこれはほんの入り口です。興味のある方はぜひ心的現象論の序説と本論を読んでみてください。