悲しみは洗ひ、嫌悪はたまる。〈三月*日〉(夕ぐれと夜との独白)

この言葉は分かりやすいので解説は必要ないように思います。また自分なりに自分に関心のある事柄に当てはめて使うこともできます。どうしようもない必然的な事柄については悲しみが湧いて、悲しみは感情を浄化するように感じられます。しかし判断の誤りとか、自己保身のために他者を見殺しにしたとか、重要な事実の隠蔽が想定されるとかといった必然性に行き着く手前の疑念がある場合には悲しみは抑制され、嫌悪が生じます。嫌悪はまだ暴露されなければならない事柄があるのにそれが出来ない状態です。現在の大震災と原発事故においても悲惨な多くのことに満ち満ちているにも関わらず悲しみにひたることができません。悲しみはすべてが暴露され、私たちの考えが世界の真相についての必然的な真実の固さといったものに触れるまでは抑制されてしまうでしょう。
世界史におけるアジア的な段階では大衆は支配者の支配を冷静に分析するということができにくいというのが吉本の考えであると思います。そこでは支配者つまり政治的に経済的に社会的に大衆を管理し操作できる者たちが何をたくらもうと、その結果自分たちの生活や生命が破壊されようと、それを天災のように受け止める心性があるということです。経済社会がアジアの農耕社会の段階を脱したとしても、心性や考えにおけるアジア的なものは遺制として残ると考えられます。特にアジア的な歴史段階が長期間続いた地域としての私たちのアジア地域においてそれは当てはまる。
長い農耕社会において自然とまみれて暮らしてきたアジア性の良さと悪さがそこにあるということです。良さという意味では私たちのなかにあるアジア性は、人と人との共同的なあり方にまだ助け合いとか困ったときはお互い様というような自然の前に平等であるという観念を残しています。組織とか管理というようなものに馴染まず、はだかで人と人が接することをよしとするような気風が腹のなかに残っています。大組織の上のほうにいる人間たちほどそうした気風を退化させ、組織という近代性の操り人形のような冷酷で傲慢で湿り気の失われた人格になりますが、貧しく大変な現場に降りていくほど制服を脱いではだかのにんげんとして接する情というアジア性がみられます。
しかしこの良さは組織とか支配とかを対照的に分析するという近代が産み出した思想の清華を受け継ぐことは苦手な特性でもあります。その思想を生み出したヨーロッパにおいてはアジア的な歴史段階にあったものをすべて対象化して、徹底的に分析し暴露して近代以降の思想や科学や芸術を作ってきたのだと思います。その対象化の歴史段階はアジア的な心性や湿り気を奪い、共同的なはだかの連帯感を奪い、ひとを切り離された個に追いつめるという代償を強いたといえると思います。わたしたちの地域的なアジアはまだそこまでの代償に耐えたことはない。そしてそれに耐えて代償として失うには、わたしたちはアジア的な共同性のなかの良質なものをまだよく感じることができているともいえます。
今回の大震災と原発事故の恐怖はわたしたちの中のアジア的な特性の良さと悪さをむき出しに暴き出したと思います。組織という近代的な産物をはみ出すにんげんの自然性の良さと、組織を徹底的に解剖してそれを自分たちで運営しようという発想がけして湧いてこない受身の弱さということです。組織というものがにんげんの自然性を奪い、なおかつ近代以降の産み出した強大な支配力を持っているとすれば、その担い手である支配者どもはどのような異様な心性と考えを持つにいたるか。それを見ないですますことはもう出来なくなりました。これからわたしたちはおそらく世界的に近代が産み出した強大にして私たちからすれば異様な組織的な心性というものの直接的な攻撃と支配を受け、それを対象化しなくては私たち自身の心性が押し潰されるという段階に入っていくような気がするからです。つまりアメリカが更なる直接的な管理と日本支配を行うだろうと考えます。私たちが他のアジア地域にみられるような、一般大衆の水準まで欧米の組織的な支配の下で下働きに従事するような社会に突き落とされるのか、あるいはこれも今の中国を始めとするアジア地域にみられるように欧米の組織を徹底的に対象化する理性を持つにいたるのか。それがこれからの課題になるんだと私は思います。