いや僕はしばらく非情のことに逃れよう。〈秩序とは搾取の定立のことである。〉世には搾取といふ言葉を好まない人々がゐる。悲しいことにそれらの人々はこの純粋な政治経済学上の概念に対して、神を感じてゐるのだ。いや人間をと言ふべきだらうか。やがて機構としての搾取は排滅し、人類はほんとうの歴史に入るだらう。(夕ぐれと夜との独白)

搾取というのは生産手段を私有している者つまり資本家が労働者を雇い働かせ、労働者が生産した価値の中から労働者が生活できる、つまり再生産できるかぎりの価値を労賃として支払い、残りの価値は資本家の自由にすることをいうんだと思います。もっと面倒な理論的な問題があるわけですが、私には解説できません。生産には労賃以外にもかかる経費があるわけですから、それを差し引いたものが利潤になるわけです。利潤が資本家を富ませ、さらなる生産に向かわせるのだと思います。資本家というものを経済の主役と見る限りは、より効率的な生産を行って商品を販売できた資本家が資本を蓄積し、経済を発展させてきたのだといえるでしょう。そして社会全体が富めば、その分配に預かる労働者も相対的に富むわけで、資本家が多くの利潤を得る社会が全体的に幸福な社会なんだという考えも成り立つのだと思います。
これが搾取という言葉を好まない人々の感性を支える論理ではないでしょうか。そういう人々は経済社会を支配し管理する者たちと、その下で雇われ働くしかない者たちがいる社会の秩序を自然の秩序のように不変で変えようのない秩序だと思っているわけです。その考えにも根拠はあります。支配、管理、金儲けということにも能力があり、苦労があり、闘いがあるわけですから誰にでも出来るというものではありません。2代目3代目の金持ちのぼんぼんを尊敬する人はいないでしょうが、創業社長たとえば松下幸之助のようなたたき上げて巨大な企業を作り上げ巨万の富を得たというような、才能と努力と人間的な魅力もおそらく持ち合わせていた人物に対する労働者側の一般庶民の尊敬の念は広く存在します。支配するもの管理するものすべてを否定することはできなくて、その連中のなかには尊敬できる親分のような人物、おやじさん!と呼びたくなるような人物がいるだろうというのが、生涯を支配され、管理され、むかむかしながらしょうがねえようなあと人生の現状を諦めようとする庶民の感性というものではないでしょうか。
だから搾取が定立、つまり確立されるときにその時代の支配秩序が確立される。そして支配秩序が搾取を中核にして確立されれば、それを支える大衆の感性の秩序も確立されるわけです。この世はこれでいいのだ、これはこれで納得がいく、支配だとか搾取だとかという批判的な響きのする言葉で語るのはおかしい、この秩序は大昔からの上のほうにいる人間と下のほうにいる人間の秩序であってそれはこれからもずっと続いていく、それはそれで英雄とか親分とか長(おさ)とか大将とか、この世には上に立つオトコがいるのであって、俺はそう偉くはなれなかったけれども世間はそういうもんだということは分かる。野球選手だってホームラン記録を打ち立てるような選手と二軍で終わるやつがいるし、歌手だってスターになるやつとどさ回りで終わるやつがいる、学生が頭で考えているうちはこの世の中は不平等だと思えるだろうが、社会に出て苦労していけば自分の力がどんなもんか分かる。上には上がいる。そして上には尊敬できるオトコがいる。戦国の武将を見てみろ、明治の元勲を見てみろ、戦後の創業社長を見てみろ、スポーツや芸能界のトップをとった人を見てみろ、そして天皇陛下を見てみろ、そこには人間として憧れるようなあらゆる徳がある。社会に出て部長どころか課長になるんだって大変だ、小さな店を維持していくだけでも大変だ、そういうなかで年老いて家の一軒も建てるだけでへとへとなのがたいていの人生だ。そういうきびしい世の中に入ってもいない学生や勉強だけの学者がいうようなことは世間では通用しない。尊敬できる上の人間に近くに少しでも近づけるように、勉強していい学校に進んで一生懸命働くことが大切だ。わかったら今日の宿題をやりなさい。
こうした感性が搾取という言葉に対して嫌悪を感じ、この世の秩序に大昔から続く宿命を感じ、そういう意味では神を感じるのだと思います。また搾取という言葉が自分が苦労してようやく到達した財産や地位や思い出、小さな部署や小さな会社やお店を切り盛りするのにもさんざん苦労してきたのに、国全体や大企業を切り盛りし日本中に名前を知らないものがいないくらいに名を挙げた人々への尊敬と及びがたいという諦めの念を否定する気がする、そういう意味では人間を感じるというあんばいになるんじゃないでしょうか。
こうした感性からは相対的な改革を積み重ねようという態度がでてきます。ぼんぼんのような支配者ではなく、庶民の気持ちを汲んでくれる支配者を、人情のない管理者よりも、老人や障害者や貧しいひとの事情を聞いてくれる管理者が上に立つように改革しようということです。そういう改革はありうるわけですから否定はできません。そして吉本の思想は誰も聞いてくれるもののない孤独のなかで生涯を終えることになります。よりましな支配者、よりましな金持ち、よりましな有名人という改革を超えて、なんでもない一般大衆がふつうにこの世を運営できる社会という夢ははるか遠くにかすんでいます。しかし吉本にとって論理は通っていて、見切りは果たされています。自らの短い生涯をその遠大な構想と一致させなくてはという焦りは吉本にはないでしょう。吉本の生涯を費やした論理が少数の読者のなかに受け継がれてそれぞれの仕事になっていけばいいと考えていると思います。
政治や経済だけでなく、にんげんの生きる性とか心とか身体というものも含めて、この世を根源的にねじの一本に至るまで解析し、その根源的な論理にそって未来を構想し、その見切りのなかで現在の問題に対決するという、社会について考え始めたにんげんの理想に短い生涯やさまざまな事情はとうてい追いつかない。それでも理想は太陽のように輝いて、考えるという宿命をもつものたちを惹きつけてやまない。それが分厚い大衆的な感性の秩序が変わっていく契機ではないでしょうか。