僕は絶えず歴史的な現実からの抑圧を感じてゐる。これは大戦中にも感じてゐたものと正しく同じ性質のものである。僕の思想が当然受けるべき抑圧であるかも知れない。(断想Ⅰ)

この吉本のいう「僕の思想」の中身が重要です。この文章で言われていることは歴史的な現実というものから抑圧を感じているということだけです。抑圧を感じているというのは具体的にいえば一家団欒で食事をしている時でも、職場で現場の仕事に集中しなければならない時でも、ひとりで通勤電車に揺られている時でも、政治だの経済だの文化だのという大きな問題、公共の問題、おおやけの問題みたいなものが気になって、それが頭のはしに常に居座っているような感じだと思います。だからふつうにワイワイできないし、つい考え込みがちだし、喜怒哀楽が平板で常になんか考えてるという状態です。つまりふつうの生き方を気になる大問題が抑圧しているわけです。まわりの人たちから見れば、なんかノリが悪い、なにを考えているのか分からない、めんどくさい気難しい人ネ、ということになるでしょう。
一方でいっこうにそういう歴史的現実であろうが政治経済であろうが誰が総理大臣になろうが知らないし興味ないしそれでぜんぜん困らないし、という多くの人たちがいます。いまはだんだん日本人の知的水準があがったというか、知の世界を水割りにして量が増えたというか、だいたい半分くらいの若者は大学に行くわけだから、頭のはしで余計なことを常に考える抑圧を感じる人は増えています。しかし吉本の時代にはもっと純然たるたとえば下町の、お上のやることはえらいさんにまかせておきゃいいというようなおっさんおばさんは多かったでしょう。ましてもっと時代を遡れば農家の、自分の村から出たこともなく農村の暮らしで一生を終えるような人たちがいっぱいいたわけです。
ところで逆にいえば、毎日毎日テレビや新聞に登場して大きな問題、尖閣諸島がどうしたとか、金融危機がどうしたとか、菅直人はクソ野郎だとか、いや立派な総理だとか、都市計画はどうあるべきかとか、そんなことが最大の問題のごとく、人生のほとんどを公共の問題に捧げつくす連中もいます。それは官僚であり政治家であり学者文化人であり、すごろくの上がりに到達して企業トップよりももっと偉くなりたくなった経営者であり、それらの真似をして大切な現場の仕事があるのに、天下国家の問題を口に泡をつけて語るのが大好きな一般のおっさんやインテリおばさんたちだと思います。わかるでしょ、そういう感じ。いるでしょ身の回りに。
そういう世間のなかにあって若き吉本の「僕の思想」はどういう育ち方をしたか。それはおおやけの問題、大文字の問題、歴史的な現実の問題よりも、身の回りのこと、ちいさな生活圏のこと、家族や自分の仕事や地域のつきあいのことが最大の関心事で、そのちいさな世界で生き死にする人たちの人生をもっとも価値のある生き方だと考えたと思います。しかし、ここが重要ですが、にんげんはなぜかそのもっとも価値のある生き方をそれて生きてしまうものなのだということです。それはにんげんが観念を必然的に産み出し、産み出された観念はその観念の世界を極限まで拡大し深化しようとするからだと思います。それを観念を拡大したい欲望なんだといってみてもいいわけです。欲望というとなんか観念を拡大することの偉そうな感じが薄まるでしょう。その観念を拡大したい欲望を若き吉本もめちゃくちゃ感じています。できるなら世界の宇宙のすべてを観念として知りたいわけですよ。知って知って知りまくりたいわけです。観念のドスケベ野郎なわけですね。下品な言葉ですいません。
とはいえ下町の八百屋のおばちゃん、新聞はテレビ欄しか読まないよ、というおばちゃんだってにんげんだから観念の世界はあります。しかしその観念の世界は吉本の概念では「大衆の原像」というもっとも価値のある生き方に近いと考えられます。家族と八百屋の商売と町会のつきあいとテレビの話題が最大の関心事だというその生き方が、たとえて言えば亭主を大切にする一夫一妻のつつましい生き方だとすれば、政治経済文化歴史のあらゆることに観念を拡大し論理づけたいという生き方は、淫乱な、浮気性の、セックスの百人斬りを目指してきょろきょろナンバ相手をさがしてうろつくような観念の遊び人、観念の不良、観念の宿無し野郎の生き方だとみなすこともできます。その最大の存在の一人をマルクスだとすると、吉本のマルクス論のなかにある「百年に一度生まれるかどうかという天才的な知識人であるマルクスの一生と、市井の一大衆の一生は完全に等価である」という文章につながっていきます。
しかし話しはそうは簡単にいかないわけです。観念の欲望にとり憑かれるには充分な理由もあるはずだからです。おそらく根底にあるのは観念を拡大しないではいられないにんげんのにんげんだけの必然です。それだけではない。公共の問題というものが、どんなに腐敗し利権にまみれ、支配の道具とされていようと、公共の大きな課題自体は厳然とあるからです。それは大昔のアジアにおいては水利灌漑のような農民にはどうしようもない巨大な公共事業だったと思います。生きていくために生産しなくてはならない、生産である農業の根底を支える天災から生産を守るという問題をたくす相手は、皇帝とか名乗る偉そうな、ヤクザの親分みたいな残虐な支配者連中しかいなかったのだと思います。そして何百年も託しっぱなしで、支配されっぱなしにしたあげく、公共の問題を扱う連中は多くの権力と権威と富と一族の安泰を奪い取った現在まで続いているのでしょう。だから公共の問題を語る一般大衆はなんとなく興奮し、ちょっとはその上流階級の雰囲気にまざっていけるような喜びを感じるんですよ。みじめなことだけど。ああいやだ。
上流階級の高級官僚や巨大企業の経営者や政治家や立身出世した文化人たちはいうでしょう。俺たちの、そして俺たち一族の繁栄と財力と権威をおまえたち一般人がうらやむのはわかる。しかし俺たちが支配者でいるのにはそれなりの苦労があるんだ。俺たちが社会を支配し、管理し、経営し、きれいなオンナやでっかい家や自家用ジェットやひれふす多くの従業員や使用人や家来どもを従えていられるのは俺たちに世界を、つまりお前たちにはどうすることもできない無力でしかない公共の問題をなんとかする実力があるからだ。それこそが歴史的な現実というものだ。お前たちは数だけは多い。だからいっせいに蜂起し反抗し暴動し革命し、俺たちを打ち倒すこともできるだろう。しかしその時、この世界をお前たちごときの烏合の衆が今よりも豊かに安全に繁栄させることができるか。できやしない。それが分かっているから支配に甘んじ、俺たちに甘え、俺たちにこの世の悪や汚い大仕事を押し付けて安っぽい居酒屋やカラオケで楽しそうにしているんだろう。さぞかし夜はよく眠っているんだろう。そのままこの先何百年も眠っていればいい。俺たちとお前たちとはそもそも人間の歴史的な格が違うんだと。
では、レーニンが考え、多くのマルクス主義者が考えたように、貧しい一般大衆が公共の問題にめざめ、公共の問題に取り組むに必要な知識を啓蒙され、ちいさな生活圏から離脱して、デモだの政治家の講演会だの文化的なサークル活動だの、果ては村会議員に立候補するだのNPOを立ち上げて社会貢献だのとふらふら上昇していくことが望ましいことなのか。そんな疑問のなかで吉本の思想は強いけものがじっとしているようにじっと考え続けます。
かって秋山駿という文芸評論家と吉本が対談したことがありました。秋山はドストエフスキイが大好きで「地下生活者の手記」とか「白痴」のイッポリートという少年の告白のような世間に出ない手記やノートの形で書かれる独創的な哲学を理想としていたと思います。自分もそのような手記を残せば自分の生涯はそれでいいという覚悟において徹底していた人だと理解しています。その秋山が吉本に、自分は考えることを仕事にしているが、どうしても大文字の問題、政治経済文化行政というような問題をほんきで考えることができない、そういう気になれないのはどうしてだろう、自分はダメなんでしょうかと聞くところがあります。これはさすがに秋山さんだなという、自分を放棄した根底的な質問だと思いました。ふつうこんなことは公言しませんよ、かっこ悪いから。その質問に対して吉本は「わかります」「明瞭にわかります」と答えます。これもほんきで受け止めるとてもいい応答でした。なぜ公共の問題というようなものは、ある種の人にとってどうしても関心がもてないのか。その人がバカだからでもなく、教養がないからでもない、人格が劣るからでもない。では何故か。吉本は公共の問題のようなことを考えるときは脳の別の場所を使う感じなんですよと答えていました。それが吉本の幻想論の成果です。
個的な幻想である文学や哲学や芸術に打ち込むと、芸術至上主義のようになって世間のことはどうでもよくなるのは何故か。あるいは一対一のエロスである家族の関係、それを中心としたちいさな生活圏のことに関心を集中させると古代の中国の農民の「帝力なんぞ吾にあらんや」みたいな、政治経済がどうあろうと関心がないというアジア的な無関心に陥るのか。吉本は強いけものがじっとしているようにじっと考え、そして共同幻想論に結晶した幻想論を考え出しました。そしておお掴みに分かったのだと思います。それはにんげんの幻想の構成がわかった以上、その構成の時代時代の変化をじっと見据え、待つということです。なぜなら分かるということが最大の武器だからです。この世界の価値が一般大衆の原像に向かって収斂し、一般大衆が支配階級の蔑視を乗り越えてこの世界の公共の問題を自ら管理できるようになり、誰がどういう生き方をしようが抑圧されない社会が来るまで、あと何百年かかるか知りませんが見切ることはやったということじゃないでしょうか。それがほんとうに正しいかどうか、それは分かりません。しかしそれほどの思想は知る価値がある、でしょ?