〈世界の美は、悪しきもの、害あるものの秩序からも生ずる。(アウグステイヌ)〉(断想Ⅵ)

アウグステイヌじゃなくてアウグスティヌスじゃないかと思うんだけど外国語は全然わかんないからな。ましてアウグスティヌスの思想というのは全然知らないので困ります。だから今回は昨年にも増してテキトーなことを書きますので、しかもちょっと酒もはいっているという最低の状態ですので、忙しい方は読むと時間の無駄になるので無視されるのが賢明と思います。
では書きますが、警告を無視して読んだ人の苦情は聞きませんよ(ー_ー )ノ"
悪しきもの、害あるものの秩序、たとえば殺し合いや暴力の世界、戦争やヤクザや犯罪や拷問の世界、売春や変態や乱交、麻薬や飲んだくれ、過食や拒食、ギャンブルに身を持ち崩す世界、そして精神病と呼ばれ今は表向きは市民権を得たように見えながらかっては忌み嫌われ人外に置かれた世界、ほんとうは今でも差別されている世界、そんななかにも世界の美は生ずる。それは美というものをどう捉えるかですけども、内臓にグンとくるとか、惹きつけられて眼が離せないとか、親に隠れてこっそり見てしまうとか、一度触れたら忘れられないという意味にとれば、それらも世界の美といってもいいでしょう。それは秘密の後ろ暗い世間体の悪い美です。
ではなぜそれが美なんでしょうか。多くの映画や小説や芸術がこうした後ろ暗い美を取り上げます。さてここで勝手ながら、美という分かりにくい言葉じゃなくてエロスというこれだって分かったようでわからない言葉ですが、それに置き換えて考えてみたいと思います。なにを考えるか自分もよくわかりません。酔ってるし。
吉本はかって芸術というものは両価性を踏まえないと成り立たないのではないか、という文章を残しています。両価というのは相反する価値のことです。善と悪とか、美と醜とか、正常と異常とか、生と死とか。良きもの益あるものの秩序と、悪しきもの害あるものの秩序との両価に足をかけないと芸術というもの、その美は成り立たないのではないか。吉本はそう言っているわけです。ではそうだとしてそれは何故か。それは価値が成り立つのは反対の価値があるからです。不良がいるから、優等生であるアナタのような人がほめられるので、みんなが優等生ならほめられませんよ目立たないから(ノ∇・、)
美ではなくエロスと考えれば、それが両価性であるのは両価というよりエロスの領域の多様さと考えることができます。エロスという概念はよく分かりませんが、この際とりあえず身体の性と精神の性がどこかでつながっている、にんげんならではのドスケベな、心身ともに惹きつけられるゾクゾクする領域としておきます。ついでにエロスがあるなら美もあるとしておきましょう。いいじゃないですか正月なんだし。気難しいことは言いなさんな(  ・_)
美というと形而上的ですが、エロスというと形而下で下世話な考え方もできるわけです。にんげんというものを捉えようとするならエロスの多様性を認めなければならない。それはにんげんがさまざまな育ち方をしてさまざまな時代を生きることを認めることだからです。裁いちゃいけないんですよ、少なくとも芸術においては。裁くというのは両価の片一方の価値に自分を縛り付けることだからです。
エロスというものは生き物の自己保存の本能として、どんな過酷な状態でも適応して芽生えていくものなんじゃないでしょうか。正月だしそういうことにしておきましょう。悪がどのように生まれるか。もしも胎児のときに母親が堕胎を考えたらどうでしょう。それは胎児にとっておまえは生きるなという命令です。ある程度成長したあとの言葉による命令なら反抗もできますが、おなかのなかでの命令は全宇宙からの命令です。いっさいの外界からの、すがるしかない全能の神からの生きるなという命令だと思います。それでも産み出され育つとすれば(正常という言葉を使わずに多数派という言葉にしますが)多数派のエロスのあり方では自己保存のしようがないと私は考えます。幼稚園や小学校というような管理された教育のなかで多数派のエロスは刷り込まれるでしょうが、そのエロスは移動する。隠された秘密の、しかし切実な命がけの自己保存のエロスの場所に移動します。それを描けるのは運よく才能に恵まれた芸術家たちです。だから優れた芸術家はみんな不幸なんですよ。でももっと重要なのは芸術的才能なんかに恵まれないし恵まれても育む環境がなかった多くの不幸な人々がいるわけじゃんということです。
全宇宙から生きるなという命令を受け、にんげんの世界から隔てられ、誰にも伝えられない真っ黒な穴を空けられたまま生きるのはどんなことか。どんなエロスのあり方がかろうじてそいつを崖っぷちで生きさせていくのか。それはそれぞれだと思います。しかしそれが悪とか害あるものじゃないでしょうか。悪とか害あるものとか言われて処理され逮捕され忌み嫌われ軽蔑される世界に光をあてるのは卓越した芸術家のみ。しかしほんとうはそんなことはない。そういう世界を多数派の世界につなげるのは、多数派の善良で凡庸なわたしたちの仕事なんだと思いますよ。だって本当は多数派の良識派を装っていたって、どこかでわかるはずだからです。アンタのことだよ(▼▼;)σアンタだって秘密の隠された後ろ暗いエロスの傷跡があるだろう。俺もある。そこから視みえるって言ってんの。
もう少し理屈めかして考えることもできる。この胎児期・幼児期に過酷なストレスを受けて生育し、多数派から強いられるエロスの場所を移動させ、自分を守るためのエロスの配置を行わざるをえなかった個人を成育史からではなく人類史に置きなおすこともできる。それは吉本の思想です。成育史としてはフロイドの仕事があります。エロスとしての個人史というものを普遍化した仕事です。口唇期・肛門期・男根期・潜伏期・性器期といったリビドーの発達の理論です。しかしそれだけでなく人類史としての観点からもエロスの発達とその生み出す社会構成段階との対応がなりたつのではないか、そう吉本は考えています。それは人類のエロス史というべき概念です。しかしそれもやはり個人のこころの奥でひそかに進行する対応です。この個人のエロスの成育史と人類のエロス史の交点として個人をみないと、ひとりのにんげんの心の奥の苦しみや、その人生のどうしようもない乱脈を解くことはできないと思います。
さらに吉本はエロス核という概念を晩年に提出しています。それは脳の機能ににんげんの存在を還元させる傾向への批判です。身体にエロス核というべき部位が散乱している。そういう意味では身体すべてが精神である。そして産まれ出ずる苦しみのなかでひとりのにんげんは成育史と人類史と現在の環界のせめぎあう無意識の奥でおのれのエロスのありようをエロス核のなかで配置する。それは吉本が言ってるわけでなく私が思いついただけです、すいません。
エロスという言葉に対応する日本語ってないんですよね。心身ともに関わる性の領域を概念づける言葉がない。日常語ならありますよ、ぐっとくるとか、震えるとか、萌えるとか。しかし概念はできてないけど、ひとりのにんげんをほんとうに揺り動かし、人生をふりまわし、命を賭けさせるものはそのひとりの人が無意識に配置したエロスの構成なんだと私は考えます。インテリじゃない人のほうがそういうことはよく分かってるんですよ。ダメだねインテリって。エロスを抑圧して知識を獲得しただけだから、本に書いてあることしか世間にないと思ってやがるんだ。しかし世の中インテリだけでできてるわけじゃないでしょう。バカもいるしヤクザもいるし売春婦もいるし痴呆の老人もいる。でも誰でも生まれてから老い果てるまでエロスだけは保ってますよ。色気は灰をつかむまでって言うでしょ。それでもいったん獲得した知識だの理屈だのってのは振り払うことはできません。中途半端なインテリはきれいさっぱりカツオ一本釣りのおっさんになれるわけではなく、死ぬまで中途半端なインテリのままです。だったら中途半端でなく、知識や観念がこの世界の悪しきもの害あるものに渡りあえるとこまで進むしかしかたないじゃないですか。世の中でいちばんくだらない役立たずのものは中途半端なインテリですからね。だから知りたいんですよ、エロスってものがなんなのか。それを導いてくれそうな人は吉本隆明しかいないように感じます。謹賀新年。みなさまの良い一年をお祈りします。