すべては荒れはててしまひました。そうして唯ひとつも僕らの可能性を裏づけてくれるものは残つてゐないのですからね。この国のみじめな都会が一層みじめになり、不毛の人々が荒れはててしまつても別に言ひようはないのですが、意識的に強制される政治や便乗者によつて行はれる貧窮人の滅亡策は堪えられない。僕らはこのやうな現実から思想としての絶望や虚無を導き出すことは容易です。だが明らかに、僕らをみじめにしてゐる対手が判つてゐるとき絶望にとぢこもることは不可能ではありますまいか。僕らは実践によつてこれを打解する外はありません。
これはひと言でいうと現実の事柄には当面の課題といえるものと永遠の課題といえるものが混在しているということだと思います。現実の事柄というのは常に様々な要素がごった煮で叩き込まれているものです。たとえばある社会、ある会社、ある家族の一定の期間に起こる事柄を対象にするとして、この事柄のなかから政治的な動きの末端としての要素を取り出すこともできるでしょうし、経済的な動きの一環としての要素を取り出すこともできます。あるいは文化的な変遷の一断面としての要素もあるでしょうし、人と人との愛憎の要素もありますし、権力やヘゲモニーを争う集団間の闘争としての要素もあります。あるいは大きな自然の移ろいという要素も含まれるわけです。
ということはどの要素を取り出すかによって、同じ社会や集団の同じ期間を対象にしても描き方は異なってくるということです。経済現象として捉えることも政治問題としてとらえることも、文学・芸術のテーマとして捉えることも娯楽の題材として扱うことも可能です。そして現実の事柄はそれらの描かれた世界の母体となっているごった煮の混沌ですから、常に選択された要素から描かれる世界より巨きいといえます。現実は知識の世界よりも文化の世界よりも科学の世界よりも、つまりそれらの現実から抽出された要素で表現され構築されて巨大な体系と膨大な伝統となっている「知」の世界より巨きい、というのが吉本の若いときからの発想であると思います。おそらくこの発想は自然というものから抽出された要素から形成される化学の世界の学徒としての吉本の経歴からやってくる気がします。
また現実が知の世界より巨きいということは大衆の存在と生活が政治的な党派やそのイデオロギーより巨きいということでもあります。こうした吉本の若い頃からの発想に思想としての大きな背骨を与えたのがマルクスの自然思想であったと思います。マルクスは世界史とその土台としての経済史と、その上に聳え立つ政治制度や文化といった人類が作り出した総合的な文明をその内部だけで解明しようとするのではなく、最も根底である自然の歴史、自然史というものがあり、その自然に対する人類の働きかけと自然からの人類への影響という相互的な代謝のような関係の結果として考えたと思います。それがマルクスがギリシャ哲学から学んだ自然哲学であって、ひと言でいえばすべての人類の構築した文明を自然のなかへ解消しようとする思想だと思います。マルクスの思想との出会いによってはじめて、吉本は若い頃からの誰の思想や表現によっても充たされることのなかった根源的な自分の思想的な飢えを充たされたのだと思います。それは単なる貧しきものを政治的に解放しようとする政治的なマルクス主義に感化されたということではないということです。
戦後マルクスの思想に出会いマルクス主義を信奉した人はおおぜいいました。その多くはマルクスの思想を実践的な政治運動の理論的な土台というように捉えていたと思います。マルクスの思想に自然哲学を読むには、読む側の人間にも自然と人間についての思想的な執着というべきものが必要なのでしょう。吉本には化学と文学の修練からくるその執着があったのだと思います。マルクス主義という政治実践を最大の価値と考え、政治実践のリーダーである共産党を不可侵の存在とみなす思想は、ある意味ではマルクスのような西欧思想の最高峰を受け入れたアジア的な思想の特色と限界であるといえます。吉本のマルクスをめぐる孤立と戦いは、アジアにおいてアジアを対象的に捉えて乗り越えようとする思想の孤立と戦いでもあると思います。
初期ノートの文章に戻りますと、現実の混沌から永遠の課題であるような人間存在の根源的な絶望とか虚無というものを抽出することはできます。なぜならそれは人間とともに今までもこれからもそんざいする永遠の課題であるからです。しかし現実にはもっと人為的な、何者かの私益のために何者かが策謀し、何者かがメディアを使って情報操作し何者かが反対者を逮捕し、何者かが偽の調書をとって投獄するというような俗っぽい人間同士の政治的な問題というものも要素として含まれています。それは当面の課題だといえるでしょう。現実にはそういう課題と永遠の課題が混在していてまぎらわしいわけです。だから同じ現実から当面の政治課題のみを抽出し、それを至上のものとして他の課題を追う文学・芸術を手段のようにみなす考えも出てきますし、逆に文学・芸術の課題を至上のものとして当面の政治課題や経済問題に背を向ける考えもでてくるわけです。あるいはすべての人間世界の事柄を大きな自然の移ろいとしてみて達観し諦観するアジア的な思想もでてくるのだと思います。
しかし殴られたら殴り返さざるをえないといった当面の課題というものは当事者にとっては常にあるわけですし、なによりも明日の飯を確保しなくてはならないという最も当面の課題はどんな人にもあるでしょう。そしてそのなかにもおいそれとは解決しようのない人間につきまとう永遠の哲学的な問題も含まれているということです。その全体を避けずに生きるということがひとつの時代をひとりの人間が生きるという真に意味なのだと思います。吉本の生き様はそうした生き方がどういうものかを示してくれています。