明瞭にここに貧窮した階級が存在し、一方に富める階級が存在する。あらゆる生産は富める階級に対して行はれる傾向にある。この傾向は貧窮を益々貧窮化せしめる。これは事実の問題であつて理論の問題ではない。(原理の照明)

事実の問題で理論の問題ではないというのは、いい悪いを言う以前に、貧富の格差とその格差の拡大が疑い得ない現実としてあるということだと思います。この格差の拡大の予想はマルクスの資本制社会の予想に基づいているのでしょう。しかしこの予想は外れます。初期の資本制社会の格差の拡大という問題の修正として、国家による資本制経済への介入が行われるからです。つまり累進税や相続税などで金持ちから多くの税金を取って、福祉政策や年金・保険制度を充実させるという手段によってその金を貧乏人に回していくわけです。その結果小泉政権の以前までは、日本は世界的に最も貧富の格差の少ない中流社会に到達しました。これは社会主義の国家群も含めた世界的ですから、そうなると結局貧富の問題に関する限り、より高い理想を言わないとすれば当時日本よりましな国は世界にないじゃないかという状況にあったと思います。
吉本は当時こうした中流化していく日本社会を前提に高度資本主義社会の論考を精力的に書いていました。しかしこの中流化の予想も短期では大きく外れます。それはアメリカの日本への政治・経済への介入が露骨に強化され、アメリカの忠実な傀儡政権である小泉政権が自国の中流社会を破壊したからです。現在は再び小泉・竹中の政策の継続である格差社会の拡大の傾向が管政権のもとで続行されようとしています。しかしその格差の上のほうにいる日本の金持ちたちの財産も、いずれはアメリカの財政危機の補填のために騙し取られていく運命にあると考えます。こうした予想は副島隆彦の優れた世界情勢の分析に基づいています。吉本からは副島が行っているような日米の属国関係を踏まえたリアルタイムの政治経済金融の現状分析を聞くことはできません。ただし吉本は理論というものの構造がよく把握していて、短期的な政治経済の動きがどう動こうと長期的に必然として移っていく資本制社会の姿を理論的に取り上げているのだと思います。それは吉本の思想的な立場であり方法です。
吉本の政治に対する思想的な立場や方法とは徹底的に一庶民ということに自分を置くところにあると思います。私たちが政治について考えるといつのまにか政治や政権の指導者のような目線で考えていることがあります。俺なら日本をこう動かす、みたいな目線です。政治というものがそもそも権力をもった人間たちが行うものですから、どうしてもその目線が政治支配を受ける庶民の考え方のなかにも入ってくるわけです。知的な人ほどそういう上から目線というものに染まりやすい。しかし吉本はその目線へ移行してしまう瞬間を鋭敏に捉えて、支配者や指導者のように考えることを排除しています。
それは吉本の生き方でもあります。吉本は鍛えに鍛え上げた武芸者のような物書きであり、その実力のみでデビュー以来文筆家としての最前線で仕事をして一度も引いたり逃げたりしたことがありません。そしてけして集団を結成したり、集団の一員として政治的に行動したりしないわけです。だから一庶民、もっといえば一庶民の中の個というものに生き方の基盤を置いていると思います。それが生活人であり同時に知識人である吉本の生き方の真髄というべきものです。
集団というものがいわば悪を作り出すと思います。人間が必然的に悪という糞をひりだすとすれば、集団は糞の山だといえるでしょう。なぜ集団を成すことが人間にとって悪を生むかということについては吉本の優れた論考があります。しかしそれでも人間は集団を作り悪を生み出すことをやめない。だからどこかで諦めて、集団の悪は必要悪とみなしてよりましな集団性を肯定するか、それともどんなに遠方の未来を想定しても集団性の生み出す悪を消滅させることに賭けようとするかに吉本と他の政治思想とを分かつY字路があるように思います。そして現在のように国際的な情勢が激動し、国内の政治情勢が日々不安定に揺れ動くようになると吉本のような遠大な構想は現実離れしていると見捨てられていきます。しかし吉本の思想は現実を忘れた象牙の塔で作られたものではなく、一庶民と一知識人との共在という立場に徹底して、戦争体験や戦後の組合運動や政治闘争やさまざまな生活体験に洗われてきています。中途半端な政治行動者や情勢論者は吉本を軽んじても、ホントウの政治行動や情勢分析を行うものは吉本の思想の存在に敬意を払い心中のたよりにしていると私は思います。
人間のもっているつまり私もあなたももっている欲望や悪意、できるなら自分ひとりだけでも贅沢な思いをしたい、気に食わないやつは自分は傷つかずに酷い目にあってもらいたい、エッチなことも充分堪能したいし、有名になってもてはやされたい、飲み屋でもVIP扱いできれいなねえちゃんからモテたいなどというようなあまり立派とはいえないどろどろした、自分一人では達成できないけど大勢がやるなら陰に隠れてやってしまえといったどろどろはすべて集団のなかに注ぎ込まれ、拡大されて個を超えた巨大な悪を作り出すんじゃないでしょうか。同時に集団性は最初は集団を形成している個々人とあまり矛盾は生じないけれども、次第に集団性が個々人の意味を押し潰すようになります。最後には個々人は集団というつまり会社とか国家とかの歯車になり手下になり、個としての感性や倫理をすり減らして大きな悪の一部になっていく。人間のもっている悪、ひりだす糞は人間というものの本質からやってくるものとして肯定するとしても、糞はひとりでひってもらうものだと思います。
もちろん優れた指導者という存在はありえます。そうした存在は必ず集団性のもつ悪というものに敏感であり、集団を閉ざさず多くの人々が暮らす社会現実に向かって窓を開くという努力をする人物です。しかしいつも優れた指導者というものに恵まれるわけでもない。特に集団が立派な糞の山になっているような現在のような状況では、何をなすべきかという優れた現状分析と、そもそも人間や集団とは本質的に何かという生涯を賭けたような思想とがともに必要です。そしてそれはあまりメジャーの評判のよくない、テレビや新聞にお呼びがかからず端に追いやられながらも実力で表現の最前線で生き残っているような人物の中に保たれています。