資本制社会は競争を激化し、人間をして憩はしめないだらう。資本制社会の真の基礎は、優越、権威、競争の心理である。(原理の照明)

資本制社会が競争を激化するというのは、資本制社会が自由競争を原則とするということですが、それは初期の資本制のあり方で現在はそこから大きく変貌しています。現在も資本制社会であり、企業間の競争というものは存在しますが、大きくとらえれば圧倒的な規模の国際的な金融資本が存在し、その金融資本のマネーの独占による世界支配が最大の問題だと考えます。独占は競争の果てに生まれるもので、競争を終わらせるものです。
金融資本という呼び名が正確なのかはよく分かりません。国際銀行家と呼んでも、ロックフェラーやロスチャイルド家のような国際的な財閥だと呼んでもいいと思います。あるいは栗本慎一郎が述べていたように産業資本や銀行業というものも含んで膨張する資金資本と呼んでもいいかもしれません。彼らの資本が格段に膨張したのは、ニクソンショック以降の基軸通貨の不換紙幣化、つまり金銀との交換保証のないペーパーマネーが世界通貨となったことでペーパーマネーが実体経済の規模を遥かに超えた発行量を生み出し、それを彼らがかき集めたことです。もうひとつはアメリカのFEBを始めとする各国の中央銀行という彼らの所有する民間銀行が、政府に対して国債という債務によって紙幣を発行するシステムを樹立し、ペーパーマネーという無からの創造物を民族国家への債務に、つまりは国民への税負担に変えたことです。この二つの機軸があるかぎり、国際的な金融資本がアメリカとか中国とか日本という民族国家を支配し、抵抗する民族国家のナショナリズムを踏み潰す支配力は衰退しないと考えます。
こうした論点を抜きに現在の世界状況は分析できないと思います。そういう意味では戦後すぐに書かれた二十代の吉本のこの文章はもう古いといえます。現在の問題は民族国家の金融財政制度に根深く食い込んだ国際資金資本の支配力を剥ぎ取り、資本を市場の内側に戻し、国家を国民のコントロール下に取り返すことだと考えます。国家をその後いかに開き、最終的に解体するかはそれらの根底にある主題で、その主題に対する吉本の論理は古びていないと思います。
しかしそれでは吉本のこの初期ノートの文章はもはや価値がないのかといえば、そうは思いません。なぜならここには政治経済金融といった社会的な人間の存在のあり方を含んだもっと根底的な人間の存在のあり方を問う吉本の生涯を貫く思想があるからです。
人間の社会的な強いられたあり方が、つまりサラリーマンや事業主や主婦としてのあり方が、自由競争下の憩いのないあり方であれ、国際的な金融独占下の、牧場に囲われマスコミという牧童に追いやられる羊のようなあり方であれ、それを人間の存在のあり方のすべてだということはできません。そのことを吉本に教えたのは、戦争という過酷な社会的体験と一群の文学者だと思います。
文学というものの構成要素には繊細な感覚とか、知識教養とか、ストーリーテラーとしての才気とか、風俗を映し出す鋭敏さとかいろいろありましょうが、文学を成り立たせている初期のものであり根本のものはハートだと思います。ハートというのは自分を包み隠さずぶっちゃけるもの、正直さ、銀座の通りの真ん中で裸になって寝転がるくらいの度胸、ウソを幾重にも剥ぎ取る暴露への執念です。そこには何かそうでもしなければ生きている気が全然しないという文学者の暗い資質が潜んでいるわけです。
日本でいえば太宰治とか夏目漱石宮沢賢治高村光太郎といった文学者に傾倒し読みふけり追っかけをし、同時にいずれは戦争で死ぬであろうと覚悟を強いられる社会体験を重ね、また家族や友人、そして三角関係の恋愛という対人的な濃い交わりをくぐって、吉本が得たのは共同幻想論に現れた人間の観念総体の分析には次元の違う三つの軸が必要だという認識でした。この吉本の幻想論を抜きに人間のあり方を分析することはできないと考えます。
人間が個として自分自身に無限に向かい合う観念の領域は吉本によって自己幻想と名づけられていますが、それは文学芸術といった領域に追いやられ、性としてひとりの人間がひとりの人間と向かい合う対なる幻想の領域はプライベートな家族や恋愛の領域に追いやられ、共同幻想という人間の観念の社会的なあり方のみが人間のすべてであるように社会というものは作られています。しかし本当は社会的な人間のあり方のすべての分野で、人間の総体性を組み込んだ概念の変更というものが必要なのだと思います。それは大衆の原像という概念を生み出した時の吉本の社会思想だと考えます。一方で現在の世界的な支配管理を行っている国際的な資金資本、財閥の思想は人間を社会的な存在であり管理される存在にすぎないという枠の中に閉じ込めたいというものであると思います。なぜならそれが支配というものの正当性を裏付けるからです。
強大な世界的な権力に対する個々の民族国家の指導者の戦いも、一般民衆の戦いも、その根底では思想の戦いです。社会のあらゆる分野で吉本の提起した人間の観念の存在の総体性の論理が浸透し、それがあらゆる分野での概念の変更を生み出し始めたら、この世界の希望が見えてきた段階ではないかと思います。だから私も自分のできる小さな社会的な分野の片隅に戻り、岩のように固くみえる従来の概念を実践的に掘り崩してみたいと思います。田原先生も長くカウンセリングの分野でそういう戦いをされてきたと思います。それでいいんじゃないでしょうか。おのおのの持ち場に戻って考えればいいわけです。それも試行という個人誌を作ったときの吉本の構想であったと思います。