且て存在した天才といふもの。僕の考へによればそれは特殊な巨大な才能を有する人を指すのでなく、速やかに自らに出会つた人を指す。優れた天賦の才能などは居ない。僕には各人は自らの限界を夫々持つてゐるように思はれる。この固有な限界を宿命と呼ばう。それ故、天才とは巨大な限界を有するものではなくて、僕によれば、深化された限界を有する者だ。深化された宿命、これを天才と呼ぶ。(原理の照明)

支配したり管理したりするのが大好きな連中の思想のなかにあるのは、自分たち支配者の優越性への確信じゃないかと思います。あるいは決定的に優越した主人に仕えるしか人生はありえないという子分の確信です。能力というものが先天的に決まっていて、その証明が民族の優越性とか身分制度とか男であるとか学歴とか健常者であるとかいろいろありましょうが、能力によって人間は優劣が決まるという多くの人が心の奥で肯定しているこの考えかたを吉本も自分に問うていると思います。能力の決定的な差というものをお前は認めるのか。
能力という考えのてっぺんは天才という概念です。では天才とは何か。吉本は人間には能力の差があるという考えを自分は認めないといっています。なぜかというと人間はある能力が限界にある場合に、必ず他の能力を伸ばして補償するものではないかということです。
人間の能力の総体という視野の中では個々の分野の能力の差というものは問題にならないという考え方をしています。だったら天才とは何か。
それは上に書かれたことです。吉本は自己資質に早くから目覚めたものを天才と呼ぶのだと言いたいのだと思います。


おまけです。

「僕なら言うぞ!」          吉本隆明

悲惨のなかで平気で遊べるとか、遊びのなかにいても即座に悲惨のなかにとび込めるとかいうことに憧れをもちます。