僕は欲望が無限のものであるかどうかを試みたことはない。恐らくそれは無限のものではないと思はれる。その限界において僕は必ずや人性の限界を視るに相違ない。(断想Ⅳ)

欲望といっても様々な種類がありますが、モノに対する欲望というものは分かりやすい限界が考えられると思います。たとえば我が家にはテレビが2台ありますが、3台要るかといえば要らないわけです。お風呂場にあると半身浴をするのに退屈しないでいいなとたまに思いますが、別にさほどの欲望は感じません。車は1台あって、もう1台小型のがあるといいなと思ったりしますが、なくても別に困らない。なんでも売っている大型のスーパーに行ってひととおり見ても、さして欲しいものもなかったと感じることがあります。あなたもそうじゃないですか?
これは多くの人に当てはまる人性の限界であると思います。したがってこれをもっと広く社会的に考えると、多くの人にとってモノに対する欲望が次第におさまってくる社会の段階が考えられます。その段階に達するとモノの生産である製造業が下火になって、モノではなくサービスや知識、金融、医療といった分野の生産が中心になってきます。つまり第3次産業が社会の中心になるわけです。では第3次産業を支える眼に見えないものに対する欲望は限界を迎えないのか?
たとえば消費を支える余暇というものは、現在週休2日は一般的になっていますが、これが週休3日になり4日になれば一年の半分は余暇ですよね。でじゃその段階をさらに越えて週休5日、6日となることを多くの人が望むようになるでしょうか。あるいは医療産業を支える健康と長寿の欲望を考えてみて、結婚し子どもをつくり孫の顔も見て、老いとともに自然に死を迎えるという生涯があるとすると80歳前後でしょう。これが100歳まで平均寿命が延びるとします。その段階でこうなったらあと50年くらい長生きしたいなあと多くの人が望むものでしょうか。知識・情報に対する欲望を考えてもいいです。今大学に行く人が18歳くらいの人口の5割を超えているそうです。これが10割に近くなると若者はみんな22〜3歳くらいまで学校に行くことになるわけです。すると今度はもっと勉強が必要という欲望に駆られて30歳くらいまで学校に行く人が大量に増えるというようになるでしょうか。田原先生のような根っからの勉強好きな人も世の中にいるでしょうが( ̄。 ̄)、多くの人にとってどこかで知識や情報はもうだいたいでいいや、という段階がやってくるような気もします。
それでは政治に対する欲望というか要求、この社会自体が豊かになったとしても存在する格差とか差別、戦争、全体主義などに対する是正の欲求はどうなるでしょうか。そこにもある達成が成し遂げられたとすると、もはやそれ以上はいいのだという限界は想定できるでしょうか。吉本は明瞭にその疑問に答えています。
吉本は現在の社会を消費資本主義社会と定義しています。消費資本主義社会の特徴は吉本によれば一つは総中流化ということです。それは9割以上の人が自分は中流の上であれ、下であれだいたい中流という層に属すると感じる社会です。もう一つの特徴は選択消費が5割を超えることです。選択消費とは必需消費と対になる概念で、衣食住のようなそれがなくてはホームレスになるような生活の根本を支える消費を必需消費というのに対して、子どもの教育費とか余暇のレジャーや文化的なレベルを上げるような個人が自分で自由に使える消費を選択消費というわけです。たとえばポルソナーレで勉強するために払う会費は選択消費です。ポルソナーレに払う代わりにパチンコに使っても海外旅行に行っても貯金してもそれはあなたの自由だという選択可能な消費の分野です。
選択消費というものの政治的な意味の大きさを吉本のように捉えた人はおそらくいません。また吉本の以下の洞察をそれ以上に展開した人を知りません。それは中流と感じている大衆が9割以上になって、その大衆の選択消費の割合が5割を超えたということは、大衆がもし自由に使える選択消費を個々にではなくいっせいに行使するなら、それは社会の政治的な権力が一般大衆に移ったということを意味するという洞察です。それはたとえば政府に対する一般大衆からのリコール権を潜在的にはすでに大衆が持っているということを意味します。もし一般大衆が政府の政策に対して納得いかず政府をリコールしたい、つまり政府を取替えたいと望むならば、最終的には大衆がいっせいに選択消費を縮小すればいい。もし大衆がいっせいに半期でも一年でも選択消費を使わなくなれば、国民経済の規模は選択消費を縮小した規模に応じて縮小してしまいます。その急激な経済規模の縮小に耐えて政権を維持できる政府は存在しないと吉本は言っています。
このことは政府に対する潜在的な権力に限定されないと思います。政府に対して影の支配力を持ち、あまりにも強欲で残忍な社会支配を行う企業体や銀行資本が特定されれば、大衆はいっせいに購入の縮小や預金の引き出しを行うことで、そのような支配を叩き潰す潜在的な権力を得た段階に突入したということです。これは9割を超える中流意識の大衆に最終的に権力が移行するという段階への、少なくとも理論上の可能性が登場したということです。このことは現在は夢物語のようですが、とても重要な社会的な読み切りを意味していて、いずれ必ず現実的に大きなテーマとなっていく洞察であると思います。
以上のことを前提として、政治的になにが成し遂げられればだいたいいいのかという吉本の考えに戻りますと、吉本は資本主義社会の展開の中で政治的に問題とされてきたものは三つの条件があれば解決の途につくと考えています。ひとつは国家の軍隊としての武装力を持たないということです。国軍というものを大衆が拒否できることです。ふたつめは所得格差がなくなることです。いわば100パーセントの大衆が中流意識を持ち、もはや中流という概念が無意味になる段階です。比較相対的な格差はあっても中流の層のうちであって、極端な所得格差はなくなってしまうということになります。三つめは政府の管理統制というものを大衆が完全にコントロールできて、国民大衆に役立つことだけは政府にやらせるけれども、そうでない金融業界だけとか製薬業界だけとかにしか利益にならないような政策はさせないということになると思います。それでも強行するような政府は潜在的な選択的消費の縮小をもってリコールできるというリコール権をもつということです。この三つの条件が達成に向かおうとすることが吉本のいう国家を開くということです。また言い換えれば現在の社会とみなされている資本主義社会の死という概念になります。この三つの条件の達成が完全な理想的な社会の実現かといえば、社会のありようはもっと広範ですからそうは言えませんが、少なくとも政治経済的な理想の最小の条件は達成できると考えると吉本は言っています。このような明瞭に整理された社会像は少なくとも他の日本の評論家や政治家に聞くことはできません。
さらに消費とは何かという吉本の本質論があるわけですが、それを書くと長くなっちゃうし、むずかしくてよく分からないところもありますので、今回はスルーさせていただきますm(._.)m