自然の秩序は先づ存在があつてそれの効果があらはれるという順序をたどるが、人性の認識する秩序は、先づ由因があつて次にその存在があるという風に考へるところに ある。(断想Ⅳ)

これは人間だけが「考える」ということを極度に推し進めるということをいいたいのではないでしょうか。違う?
それは人間だけが時間を意識するということでもあると思います。由因つまり原因を求めるということは時間の中にあるからです。個としての人間の時間は誕生から死までの枠の中にあります。誕生の前の胎内、そしてそれ以前の精子、さらに精子以前ということになるとそれは前世ということになると思います。一方死の先の存在のあり方は来世、あの世、浄土とか地獄ということになると思います。前世も来世も体験して語れる人はいないわけですから、すべて現世の時間のイメージの産物です。だとすれば前世も来世も同じもので、そのイメージの根源は胎内から出生に至る無意識の奥にしまわれたものの発現だとみなすこともできます。吉本はそう考えていると思います。死と来世とは、出生から胎内に時間を逆に辿ることなのだ。それは宗教とか来世信仰とかを単なる迷妄と片付けないで、根気強く論理として追求し続けた吉本の思想の達成です。

おまけです。一部しか引用できませんが、これだけじゃよくわかんないので興味のある方はぜひ原典である「母型論」をお読みになることをお勧めします。特に精神障害に関心を持たれるポルソナーレの会員の皆さんには読んでほしいと思います。もう読んだ?それはどうもすいまそん。

「母型論」(1995 学習研究社刊)
(略)
 胎児がエラ呼吸的、内コミュニケーションによって母と親和し、栄養の内摂取の状態から出産によって急激に外コミュニケーションの関係に転換されるため、否定的な衝撃に充たされた場合を「死」と同型の構造をもつものとみなしてみる(ロス「死ぬ瞬間」)。すると否定的な衝撃のすぐあとに、乳児の無意識には<なぜじぶんはこんな不安な外界に生まれてしまったのか>という憤りや悔いの状態がやってくる。そしてつぎに<もう一度母親と親和の接触を与えてくれたら、生まれた状態を肯定してもいい>との取りひきが起こり、そのあとで<生まれたことのながい(一年にも及ぶ)抑鬱の状態>を予感するが、やがて、「いたしかたない」諦めの受容がやってくる。もちろん母親には乳児の無意識のなかで、こんな複雑な心のうごきが形成され「NO(ノオ)」を緩和する過程などわからない。乳児自身もじぶんの無意識の核のところで形成される意味形成的なシニフィアンの存在などわかるはずがない。すると、この状態は誰にもわからないことになる。そして生涯の終わりの死のとき、はじめてその存在を知ることになるかもしれない。
 (略)