人間の思考は、あたかも逆行するが如き感覚を伴ひつつすすむ。(夕ぐれと夜との言葉)
自分が何かを考え込む状態を内省してみると分かりますが、要するになんでこんな事態になったんだ?と原因を探っていくのではないでしょうか。それは思考が時間を逆行することだと思います。この時間というのは自然時間ではなく、考えとか感覚が形成されていくプロセスの時間です。だから数日間でも長い内面的な時間のこともあるし、数十年前でもつい昨日のように感じられる時間ということでもあります。 思考の対象を自分の内面ではなく社会に向ければ、やはり原因を歴史的に探るという逆行を行うと思います。その行き止まりまで逆行していくと初源とか起源という概念が現れます。そして今度は逆に初源から現在へ時間を辿るという思考が生まれます。そこで初めて現在というものが把握できるという考えがあるのだと思います。なぜ初源、起源にこだわるかというと、おそらく初源の中にすべてが含まれていて、その後の時間の進行は初源の中に含まれていた全体性が外へ現れていった過程だという考えがあるからだと思います。したがって外に現れていったものは、常に初源の全体性より小さいという考え方ではないでしょうか。 しかし、初源の全体性、あるいは包括性にとどまっていることができずに、果てしなく置かれている環境に対して自分を外へ現していくのが人間の宿命であって、それが果てしないのは常に初源の全体性のビジョンが人間の中にあって、そこへ戻ろうというか到達しようというかそういう衝動がつきまとうからのように思えます。人類の古典的な大きな思想とか宗教というものは、そういうビジョンを含んでいるためにいつまでも死なないのではないでしょうか。 どこまで起源に向けて遡ることができるかは、その時代の文化の水準に限定されるわけですが、より深く逆行して遡ることが未来をどれだけ見通せるかに関わるという考えが吉本にあります。吉本はアフリカ的段階という歴史概念を掘り下げていますが、これは人類史の初源に遡るだけでなく、遡ることによって逆に現在を越える未来の社会像を考察することにつながると言っています。初源というのは言い換えれば自然ということになるかと思います。人類が外に現してきた一切の歴史や文化を初源の中へ、つまり人間を発生させた自然の母胎の中にまで逆行させるという徹底した思想のあり方です。それはマルクスの自然哲学から学んだ吉本の思想の基底じゃないでしょうか。 心の悩み苦しみの原因を時間を逆行して辿ると乳児期胎児期に初源を求めることになります。吉本は精神障害の基本的な性格は受身ということにあるのではないかと言っています。また男性も女性も乳児期に遡れば受身の女性的な存在であり、逆に母親は積極的な男性的な存在として授乳したり排泄の世話をしたりせざるをえないと言っています。どんな人間でも赤ん坊だったわけですから、誰にも逃れることの出来ない性としての人間の根源が赤ん坊の頃にあるわけです。 自分自身につきまとう長い持病のような心の悩みを考えていくと、確かに時を逆行するような深い穴に落ちていくような感覚が伴います。そして自分が無力で何も出来ない、ただ母親という絶対的な保護を待つだけという感覚が深い穴の底に横たわっている気がします。そして待っても待ってもやってこないことに絶望して泣き叫ぶという感じ、もう二度と幸福はやってはこないのではないかという深い疑いに怯える感じ、かすかな物音や気配にも過敏になって訪れてくるものを探る感じ、無力でなにもしていないのに何かをしでかして罰されているのではないかという被虐的な感じなどが穴の底に影のようにひそんでいます。 その不幸な感覚や不満や自虐的な垂れ込める曇り空のような思いは、赤ん坊の頃の通り過ぎた時間から来るのですが、内面的な時間というものの中では今なお生きて心を支配しています。 思想というものに力があるとすれば、この乳児、胎児期に起こった初源の出来事を明らかにして、その出来事をその出来事の中に厳密に還して、他の人間関係の意識や社会意識と混同させないことができると思います。赤ん坊の頃やさらに胎児であった頃の出来事が、成人してからの人間関係や社会認識に影響を与え、自分でもどうすることもできない歪みを生じさせていく苦しみから人間が逃れられるとしたら、それには精神の初源を明瞭にする思想の力が必要です。乳児、胎児期を内面形成の奥から解明することは、長い間文化的な秩序の高みに置かれてきたものを、俗っぽくうんちくさく、涙に汚れ乳くさい、知というものの始まらない起源に還すことによって破壊するかもしれません。しかしあらゆるものを平凡で日常的で俗っぽい、誰もが逃れることの出来ない普遍的な原像の中に還して考えることが吉本の思想です。