「今日一日誰とも出会ふことはなかつた。為すことも何もなかつた。何処から何が生れて来るだらうか。精神は睡眠してゐる。」(少年と少女へのノート)

よしもとばなな吉本隆明の次女ですが、「ブルータス(2010年2月15日号)」の吉本隆明特集のインタビューで吉本隆明の娘として共に暮らすのはどういう感じかを語っています。それは一つ屋根の下でお坊さんや武道家と一緒に暮らす感覚と似ているんじゃないか、というものです。家の中になにかをすごく鍛錬している人がいる、という状態だと言っています。ぼーっとしていたり、だらしなくしていたりしているように見えても、吉本の内面は一時たりとも休まないで何かを掘り下げている、それが家族には分かる。それは家族にとってキツイことだと思いますね。緊張が伝わってきて緊張に感染することがあります。
この初期ノートの文章も、事実としては一人暮らしの経験でもあれば誰にでも思い当たることです。一日することもなくだらだらしていたら夕暮れが来てしまった、という経験です。老人だったら毎日がそうだ、と言ってもいい。しかし事実としてそうだったということと、それをわざわざ文章にしてみるということとは違います。この無為という状態を対象として見つめて、無為な状態とは何かということを考えている吉本がいるわけです。やっぱりぼーっと過ごしていても、精神が睡眠しているとは言えない。あるいは睡眠しているような精神を、どこかで見ているさらに奥まった精神があるような感じです。それはお坊さんや武道家のような内面を強いられた吉本の宿命です。
特にすることがなく、一日だらだらしていて無事に過ごすならば結構なご身分じゃないかと言えるところはあります。毎日くたくたになるまで働かざるをえない境遇だったらなおさらそう思うでしょう。しかし毎日無為に過ごしていると、逆に人間は自分で自分を追いつめて苦しめるところがあります。それは一人でいようと無為でいようと、人間は目には見えない関係の中にいて、たえずその関係の中にいる意味を問いかけられているような存在だからではないでしょうか。そのことから逃げることはできないから、無為に過ごすことがその見えない関係を見ることを強いるために苦しくてしょうがないということがありえます。それが傷ついた幼少期に関係の起源をもつ苦しみならなおさらです。
見ることを強いられても、はっきり見えない状態が一番苦しいと思います。吉本が救われているのは知識と思考力があるからです。吉本はどこかで知識というものも、心が底なし沼のようなところに落ち込むことを救う面があると書いています。知識や知識に基づいて考える能力は見えない関係の強制力を見る力だからです。見えないお化けより、見えたお化けのほうが怖くない。人を狂わすのは見えないから、分からないからだと思います。
私は無為な状態が実は地獄のようだという人と何人も接してきました。そういう人はたくさんいます。わたし自身も多かれ少なかれ似たところがあります。それは医学的に言えば精神障害ということになるでしょう。あるいはその境界例ということになると思います。しかし医学的なことを言わないで、そういう人を考えると、底なし沼のような不安を抱えた人という感じになります。では医学的な概念でなく、そういう人はどうしたらその底なし沼に対処できるでしょう。底なし沼から逃げるために回避的な行動をとることが生活のベースになるのではなく、底なし沼が自分の中にあることを認め、その沼が埋まることが生きることだと思えるにはどうしたらいいでしょうか。
医学的な言い方、つまり医者と患者という関係の言葉を避けて言えば、ということは私とその人というむき出しの関係の言葉を探して言えば、それは底なし沼がぽっかり空いているのは、世界でその人ひとりだけに向き合った全面的な愛情をもって向き合ってくれる人間の存在感が欠けているからだと感じます。その存在感は与えられている人には空気のような自然なものですが、与えられ損なった人には絶望的な欠落、尽きない暗い謎、怖ろしいお化け、つまり底なし沼のような罪悪感と不安感と空虚の穴ぼこです。その根源を問えば、やはり母親の与えるもの、あるいは与え損なうものと考えざるをえません。
では母親から与えられ損なった人は、どうしたらいいのでしょうか。知識や考える能力を身につけて底なし沼をやみくもに怖がらずに見ることができるようになればいいのでしょうか。それは吉本がやってきたことです。しかし知識というものも特権です。知識への道を与えられ損なった人はどうすればいいのでしょうか。知識や思考が修行のひとつだとして、その修行もできない人、お坊さんや武道家のようになれない人、自力で修行の道に入れない親鸞の言い方でいえば悪機の人、悪人はどうしたら往生できるのか。
親鸞ならばそれは人間的な規模を遥かに超えた阿弥陀仏の存在が救済することを信じてゆだねればいいのだと言うでしょう。しかしそういう絶対的な超越的な言い方、同じ人間なのになんでアンタにはそんな神仏を見てきたようなことが言えるんだよ、という言い方を避けて言えることを探したら何が言えるでしょうか。それはやはり母親が与え損なった存在感を埋めるような世間の中の誰かと人生の旅のなかで出会うしかないと思います。
母親が自分の体から産み落とした我が子に抱く思い、世界中でおまえだけは私が死んでも守るんだよ、それほどおまえは何ものにも代えられない大切なものだという思いに匹敵するような出会いというものがありえるのでしょうか。ありえないと思えば、生涯底なし沼は暗黒の口をあけて、そこに落ち込むのを待ち続ける気がします。これは知識の問題ではなく、出会いと体験の問題なのでいわば生きてみるしか答えのでない事柄です。
吉本が晩年、つまり近年になって言っていることの中に人間力という概念があります。これも言わば生きてみて体験しないと分からないような概念ですが、なんとなく言いたいことは分かります。それは母親のようにとは言えないとしても、修行もおぼつかない衆生の中の底なし沼を埋めていくような、向き合う人間の存在感のことだと思います。人生を生きてみて、誰かのことを大好きになるとすれば、それは誰かの人間力がそうさせているのだと思います。また誰かがあなたのことを大好きでいてくれるとすれば、それはあなたの人間力がそういう幸福を導いているといえるでしょう。つまり人間力なるものは、人をそらさない、回避しないで耐えている人間の何かなんだと思います。