自由は必然性のなかにある。必然!僕には無限に底ふかい言葉だ。僕は、と或る日、その言葉をせっせと掘り下げてゐるのを感じる。現実が仮象のやうに遠のいたのはそんな時であった。(序章)

一番大切なのは自分にとっての自分の生活ですから、そこからこの文章に関わることを考えてみます。関わることが特になければ、どんな文章でもそんなもんは後回しで、まずは自分の生活を考えるわけですよ、ざっくり言って。私は心配でならない。自分の仕事、自分の財産、たいした財産じゃないけど、そして自分の健康、それがなくては支えることができない自分の家族。あー毎日なんとなく心配だ。あなたもそうでしょ?
自分の心配を大きく分ければ、ひとつは災害、特に地震ですが天然自然に対する心配があります。次に自分の仕事や社会生活を大きく決定づける、政策とか景気とか外国との関係とかの社会に対する心配があります。そして自分の肉体や心に対する心配があります。これらのどれひとつ取っても自分の思うようにはならない。判断を超えるものであり、できるのは心配だけといってもいいくらいです。
心配だから私は私なりにごちゃごちゃ考えています。しかし私は私の考える力にまったく自信がない。むずかしい、わからねえ、というのが常に考えた後にでてくるため息です。私のほかの誰かよりもよく分かるとか分からないとかじゃなく、対象となる社会や自然や身心に対して分からないことが多すぎるわけです。膨大な分からなさの海のような中をアメーバのような自分の考えが泳いでいる。いったい短い人生で分かるなんてありうるのか?アメーバに海が分かるのかね。しかし考えることをやめることはできない。考えるということ自体が人間にとってどうすることもできない必然だからでしょう。
吉本が考えたことによると、こうした人間の考える力の制約というものが意見の対立というものを生むのです。逆に言うと意見の対立があるということは、人間の考える力が対象に対して制約されている証拠です。私は現在の民主党小沢一郎や石川議員に対する検察の行動をアメリカの日本支配の意思を背景にした政治謀略だと考えています。また民主党のあり方を現在のところ自民党や他の党派のあり方よりずっとよいと思っています。しかし私がそう意見を述べれば、真っ向から対立するさまざまな意見と衝突するでしょう。私は私に対立する意見を攻撃することはできる。しかし私が私自身の意見のなかにぽかぽか空いている穴、しょせんはアメーバが海について考えているだけだというわからなさの制約はどうすることもできないものです。人間の作った社会についてのことならば、人間がそのしくみについてよく分かる段階は来るのかもしれない。しかし人間そのものを作った自然についてよくわかる段階は果たしてやってくるのか。少なくとも私にとって最大の必然である私自身の老化や病気や死という恐ろしさがやってくる日には間に合わないことは確実です。
私は膨大な分からなさを抱えて、少しは考えることをしてきたアメーバのような心境で最後を迎えることは間違いないでしょう。そしてそれは私だけでなく、あなたも、そちらのあなたも、人類みな同じなんじゃないでしょうか。酒でも飲むしかないかo口(・□・ )
私が私自身になるべくうそをつきたくないとすれば、私は私の膨大な分からなさ、あるいは私自身の考えの制約の大きさを常に意識しなくてはなりません。それは私を解放しないし、燃え立たせもしないし、明るく前向きにもしないけれども、少なくともうそをついている感じはしないわけです。私の思い通りにはならない、私の思いを遥かに超えた規模の分からない存在に私はいやおうなく動かされる。それが必然というものです。アメーバにとって海が必然であり、アメーバは海自体の動きに翻弄されて揺れ動き、やがてくたばっていくわけです。吉本は私の知る限りもっともすぐれたアメーバ仲間ですが、やはりアメーバであることに変わりはない。そして吉本がよく考え、生涯を賭けて考えに考えて解明したものも格段に大きい。しかしやはり膨大な分からなさを抱えていま最後の日々を送っていると思います。
広大な宇宙のなかにいることを日々忘れて暮らしているし、いつかは確実に死ぬことも忘れて暮らしているように、私たちは膨大な分からなさの中に数千年たってもいることをあまり意識はしない。常に意識したら、うっとうしくてやってられませんからね(/−\)しかし吉本が自信ありげな幾多の人士に比べて私を惹きつけるのは、分からなさという大きな夜空をいつも見続けているような、それも宿命だと思いますが、そんなたたずまいです。
最後まで読んでいただいても、私には分からないことがいっぱいあるということしか書いてないので恐縮ですが、今日はめぐり合わせが悪かったと思ってあきらめてください。