「僕がコミニスムに感ずる唯一の不満はそれが余りに健康であるといふことだ。理論が既に破れ、実践が尚存続するといふことはその健康さを証明する。僕がマルクスに驚愕したところは、それが精神の真新しい次元を要求するかに感ぜられたことだ。あの偉大な聖書も僕を深化に導いたが、決して新しい次元に導くことはなかった。」(原理の照明)

これはどういうことが言いたいのかというと、コミニスムつまりマルクス主義というものは教条主義的だということだと思います。教条主義というのはマルクスの文献というものが教条つまり聖書みたいになっていて、それを信仰しているだけだということです。それを称して健康だと言っているのです。健康とはあまり深く考えないからお気楽だというようなことです。けしてほめているわけではありません。理論的にはもう現実に対して無効なのにいまだに党派は存続し、元気に活動したりしているのは彼らが現実から考えているのではなくマルクスの教義を信仰しているだけだということを言いたいのでしょう。
しかしそのマルクス主義者の理解するマルクス思想と、本当のマルクスの思想は別物だというのが吉本の理解です。それで吉本の捉えた一番マルクス思想の核心だと思えることを、「真新しい精神の次元を要求するかに感じられた」ところだと言っているのだと思います。真新しい精神の次元とは何か。おそらくそれは現実の社会構造の理解と、精神とか観念の領域の理解とを共に思想の中に組み込んで、両者の関係というものをこれが真実だと思える深さで考察したということだと思います。
マルクスの思想の中にはヘーゲルから受け継いだ個人の心から共同規範にいたるまでの観念の全領域に対する思想がある。そして生産の歴史としての物質の面から捉えた歴史の領域の思想がある。そしてその観念と物質の領域はマルクスの原理的な思想の中で究極まで考え詰められている。それは吉本が自分自身にも周囲の論調の中にも体験したことのなかった思想としての巨大さだったと思います。それをどう理解し、感性として捉えることができるか、ということがマルクスが切り開いた未知の思考領域への吉本の驚きだったんだと思います。

おまけです。私事ですけど私は来月NPO職員を辞め介護職に戻るわけです、老人や精神障害者についてのこうした吉本の考察は、私にとっての真新しい精神の次元を要求するかのような驚きにあたります。

「言葉からの触手」             吉本隆明
3 言語 食物 摂取
(略)
絶えずくぐまった音声でぶつぶつと独り言をつぶやいている精神の病、あるいははんたいに音声をまったくなくして緘黙している精神の病。これらは比喩的にいえば呆けて生ま米を齧っている老人の姿や、潔癖のあまり拒食症にかかって痩せ衰えた少女の姿になぞらえられる。だが、ほんとうはこういった精神の病は、病むことでなにをしようとしているのか?こんなふうにして、人間は草木や虫や獣の世界へゆく入り口をさがしているのだとおもえる。ただたんに精神が現実から撤退したいのなら、おしゃべりや書き言葉の脈絡だけをうしなえばいいはずだ。くぐもった独り言や、まったくの緘黙はそれとはちがう。草木や虫や獣のほうからみたら、人間がじぶんたちの世界への入り口をさがしている印象にみちているに相違ない。