「僕は後悔といふ魔物、その親族である宗教的ざんげを嫌ふ。且てキリスト教を堕落せしめた要因の一つは、キリスト・イエスにおける自己嫌悪としての悔ひ改めを、慰安としてのそれに転落せしめたことである。自立を依存に、独立を隷属にすりかえたことである。」(原理の照明)

後悔というものが嫌いだ、宗教的なざんげは後悔の親族みたいなものだから嫌いだという25歳の吉本の言葉の背景には戦争と敗戦の体験があると思います。当時の日本の戦争に対する一般的な感情が後悔とざんげになっていることへの反発です。
象徴的なのは例えば広島の原爆です。原爆はアメリカによって落とされた。後遺症で亡くなった人も含めて数十万人の民間人が殺された。長崎にも落とされた。戦争とはいえ民間人をこれほど大量に虐殺するということの不当さは当然アメリカに向けられていいはずである。しかし広島の原爆の資料館や式典を見てもアメリカへの非難はどこにもない。典型的な言葉は「あやまちは繰り返しません」というものです。つまり日本が軍部にひきづられて戦争をしたのがあやまちで、もう戦争はごめんだということだと思います。
戦争をしてしまったという後悔と、あやまちは繰り返しませんとか、平和への祈念というざんげでアメリカによる日本人同胞の大量虐殺という事実を処理してしまっています。これは明らかにおかしいことで、戦争に負け、戦勝国の支配を受けるということが、政治や経済だけでなく敗戦国民の精神や思考も敗北させ支配されるということを典型的に示していると思います。
本来であれば原爆を落とされたということに対する感情や判断の中には、もう二度とこんな悲惨なことはごめんだという感情とともに、原爆を投下したアメリカに対する怒りや、戦争を遂行した日本の軍部に対する怒りがあるはずです。また同時に一国民として戦争を肯定し参加していった自分自身への自己嫌悪があり、そのあらゆるものへの否定と批判の苦しみから、今までの自分たちに欠けていた世界や戦争や人間性に対する認識を作り出そうという欲求が生じるはずだと思います。しかしそこまで思考は進まず、後悔とざんげや祈りというところで停止している。なぜ停止するかといえば、原爆についての資料や式典を組織するものたちが停止しているからであり、その組織に対して依存して自分で考えるという自立のあり方を失ったひとたちが大勢いるからです。
ここまで残酷なあからさまな虐殺をされていながら、ここまでしか考えようとしないのか、という唖然とするような絶望感を私は感じます。そしてそれが当たり前のようになっている空気の重さというものも感じます。なぜ私たちは広島長崎の原爆に限らず、政治によって起こる出来事を徹底的に考えようとせずにやりすごしたくなるのでしょうか。これがアジア的という文化の段階の特長であり、その強い影響が今も私たちの脳を拘束しているとすれば、世界的な金融危機実体経済の大不況の中で年末を迎える現在の私たちは、こんなことで大丈夫でしょうか。
大丈夫なわけはないので、どうしたらいいかといえば吉本が歩んだ人生に学ぶことだと思います。どんな組織にも依存しないで、マスコミの言説にも隷属しないで、自分で現実の事象や自らの経験を土台にして納得いくまで考えるという人生です。考えることの幅が小さく、自分や自分の日常の周囲に限定されているとき、きっと人は多くの真実を獲得しています。それは自分自身に直接に関わる世界だからです。そのことの意味をバカにすることはできない。新聞も読まないような平凡な人生を送ってきた主婦のおばさんが多くの真実をその考えの中に含んでいるし、それが人間にとって一番重要なあり方だというのが吉本の根本的な思想です。
しかしそのおばさんはいったん日常の世界の外の出来事について考えると、とたんに脳を支配されてしまうわけです。それはマスコミや政府や評論家の言説に支配されてしまうのです。そして支配されたあげくに投票し、法律に従い、なけなしの財産を投資し、そして身ぐるみをはがれたり、戦争に駆り立てられたりしても、それに対する批判の構えをもつことができません。そして最悪の被害にあっても、また後悔とざんげで涙を流して祈ることしかできないんだったら、いったい最も重要であるはずの一介の庶民の人生というのはなんなのかということです。
吉本の人生ももう終わりが近い。吉本は俺の言うことを信じろとは言わないでしょう。自分で考えるというまっとうで険しい道を歩く顔も知らない人たちに、俺はここまで考えた、君は俺の考えたことをさらに批判して、継ぐ価値があると判断した考えを継いでくれと言うのではないでしょうか。吉本のような存在が先行してあることは、自力で立ち上がって歩こうとする人たちにとっての数少ない光です。