「アジア精神の将来は、決して悲観すべきものとは思はれない。併(しか)し、現実的な抑圧がその光輝を剥奪(はくだつ)してゐるのである。」(断想Ⅱ)

アジア精神という言葉に戦争期の思想的な影響が出ていると思います。アジアの思想の一番怖ろしいところはアジア思想の一番苦手な共同体の思想の中にあります。共同体の思想、つまり共同の幻想の領域に個人と家族というものを引きづり込んでしまうところです。これは年配の人は大いに思いあたると思います。つまり仕事人間になって、個人も家族も会社のために犠牲にしてしまうようなことです。戦争のような極限の状況になると、命までもお国のために投げ出してしまう、そしてそれをよしとする共同体の思想の中に無批判に埋もれていきます。
現在、近代の欧米の思想が世界恐慌への突入の中で審判されています。こんな社会を作り出すことが進歩したご立派な欧米の思想なら、それは限界があるんじゃないかという審判です。審判するのは欧米に支配され搾取され続けたアジア・アフリカ・南米です。するともう一度近代欧米思想以外の思想の見直しも起こってきます。だから決してアジア精神の将来は悲観するべきものでもないということになりましょう。

おまけです。連合赤軍事件であれ、オウム真理教事件であれ、多くの知識人が当たり障りのないことを書くか書かずに逃げる中で、吉本は常に自分の独自の見解を勇気をもって公開してきました。この文章の第一の価値はそれです。そして連合赤軍という忌まわしい悪霊のようにみなされて敬遠される事件を、吉本は市井の片隅に、つまり自分と多くの大衆の現実との目に見えない格闘に結び付けています。

「情況への発言」(1972年6月)           吉本隆明
(略)
ところで<連合赤軍>事件なるものは、たんに現在の世界の政治的な混迷をなぞっている一事件であるばかりではない。現在の市民社会の混迷を象徴する一事件としての性格をそなえている。その意味では、わたしたちのたれも、かれらのリンチ殺人を非難することはできない。もし、<連合赤軍>の<規律>なるものの共同性に、まったく叩き込むことができると信じた<家族>と<個人>とが、山岳生活のなかでかれらに蘇ってきたのだとしたら、政治理念上の錯誤はそれとして、かれらは日常的な関係に復しゅうされたのだともいいうるからである。わたしたちは、たれも、日常生活のなかでぶちこわされそうな家庭、夫婦、友人、知人、近親などの関係を、辛うじて縫い合わせながら生活している。あるいは別のいい方をしてもいい。これらの市民社会における関係のなかで、何べんも他者への殺意とそのうち消しとを、また、背信と信じようとする意思と努力、またそうすることの空しさのなかで生活を繰返している。その行手に曙光がみえるわけでもなければ、いつかはそれを恢復しうる、という望みがあるわけでもない。ただやみくもに、この日常性の果てしない泥沼のなかをかきわけているといっていい。そうだとすれば<連合赤軍>なるもののリンチ殺人は、また、わたしたちが心的にくりかえし、現実的には抑制しているものの<象徴>とみることさえできる。かれらがそれを現実的に実行し、わたしたちの日常性が、それを心的に行うことに踏みとどまっているのはなにによるのか?それは、わたしたちが、殺人罪をおそれているからだろうか?それとも、わたしたちが、かれらにくらべて、<正常>で<健康>で高い<倫理性>をもっている善玉だからだろうか?わたしには、このいずれの理由も信じられないし、かえりみて他をいう気にもなれない。
ただ、ひとついえることは、わたしたちが<家族>や<個人>の日常性に住んでいるのに、かれらが、もともと観念的にしか住むことができない共同性に、すべてを叩き込もうとしていた、という差異だけである。また、わたしの<理念>では、<組織>の共同性と<家族>や<個人>とが、まったく別の次元に属するという認識をもっているのに、かれらが無理にも<組織>の共同性に、<家族>や<個人>の次元を、封じこめようとする<理念>に支配されていたという差異だけである。かれらを<狂気>、<異常>、<非人間>と非難してはばからない権力やマスコミやそれに乗ぜられたひとびとは、ただ、眼をすこしの瞬間だけ内側にむけてみれば、けっして他人ごとではないことに気づくはずである。おそらくここには現在の<政治理念>の問題があるとともに、<情況>の課題がまちかまえている。ここで<政治理念>の問題としてならば、すぐに決着をつけることができるが、<情況>の問題としては、けっしてそれ自体で解決されない困難さが横たわっている。この困難さは組織の共同性に、<家族>や<個人>を圧殺して、鉄砲でも撃てば、解決されるものでもなければ、果てしない日常性の泥沼をかぶってゆけば、どうにかなるというものでもあるまい。かれらは、その課題をわたしたちにつきつけたのだ。