「意味ない言葉こそ本能的といふことが出来る。」(風の章)

これは若い頃の吉本の言葉であって、その後の吉本であれば言葉についてこういう言い方はしないと思います。つまり本能的という言い方はしない。吉本は後年の言語論において言葉を意味を指し示す指示表出という概念と、価値を表す自己表出という概念の織り成すものとして論理付けています。これはまだそういう独自の概念を編み出す前の、しかし言葉の意味があるとかないとかいう問題に執着する若き吉本の姿があらわれている文章だと思います。
吉本の言語論の論理をたどるのは「言語にとって美とは何か」を始めとする論文を読めばいいわけです。それをまた私が頭の悪い要約を試みてもいいわけですけど、しかしいったいなんで吉本が、言葉の意味があるとかないとかいうことにこだわるのかピンとこない人がいると思います。最初にピンとこないのに、どんどん先に進まれても苦痛ですよね。大事なのは最初にピンとくるというか、ふっとわかるというか、興味が惹かれるというか、そういういわゆるツカミではないかと思います。そこで私としては分をわきまえて、言われてみれば誰もが思い当たる、しかしあんがいそういうことを正面にすえて考えてみたことはないという、うまい入り口だけを描くことを試みてみたいと思います。うまくいったら賽銭をなげてください。
言葉というものには意味というものだけでなく、価値というものもあるんじゃないか、ということがポイントです。どんな言葉でもいいですが、例えば「踏切」という言葉は電車が通るときに遮断機が降りる誰もが知ってるアレですね。それが踏切という言葉の意味です。辞書にもそういうように書いてあるでしょう。それを正確にわかることはもちろん重要です。しかし価値という面で考えると、踏切という言葉の価値は人それぞれで違います。価値というのは人それぞれの心に湧いてくるものです。踏切を毎日通学で利用している人、踏切の事故を見たことのある人、踏切を待つ間に好きな人と話ができたとか、人それぞれの踏切にまつわる心があって、それが踏切という言葉によって湧くでしょう。そしてそれは伝わりませんよね、簡単には。踏切という、電車が通る時に遮断機を降ろして通行者を止めるもの、という辞書的な意味が伝わるだけです。
意味が理解できれば会話は成り立ちます。社会生活もできます。社会というものは言葉の意味の定義の共通性というものを土台にして成り立っているからです。だから意味の共通性を間違って学んでしまえば、社会で生きる上でどこかで挫折します。そこで言葉や概念の意味の定義をしっかり学ぼうということが重要になるわけです。しかし意味は言葉の一面にすぎません。言葉には意味のようには伝わりにくいし定義ができないが、しかし人それぞれの価値というものも込められていると考えることができます。
例えばですね、サントリーのボスというコーヒーのテレビCMで宇宙人が地球人にまぎれて生活して、「この星では無口なほうがモテル」とかつぶやくやつがあるでしょ。仮にそういう宇宙人が地球にきて、あらゆる辞書をあっという間に理解して、あらゆる言葉の意味を正確に辞書どおりにわかったとしますね。彼は社会生活ができるし、大学の教師にもなれるし、評論家にもなれるかもしれない。しかし彼は踏切という言葉を辞書的な意味としてしか受け取ることはできないんですよ。そして彼は踏み切りを正確に利用して事故に合わないで生活することはできる。しかし誰かが踏切という言葉に込めた、あるいは無意識に湧き上がらせたものが何かはわかんないわけです。
しかしそのストレートには伝わらない、個々の人の言葉にまといつくものが個々の人にとっては重要です。つまりその人自身にとってかけがえのない何かです。その伝わらない何かをなんとか伝えようとするのが芸術とか文学なんだと思います。
社会に流通し、人と人を関係づけ、複雑な交通を成り立たせる意味としての言葉と、その影となって伝わらず個々の人の胸のなかに沈黙として戻っていく価値としての言葉。私の解説じゃ役不足なんで、天才文学者・太宰治の文章を引用します。言葉の意味と価値についてこの優れた文章を読めばなんかふっと分かるんじゃないでしょうか。

「走ラヌ名馬」             太宰治
 何ヲ書コウトイウ、アテ無クシテ、イワバオ稲荷サンノ境内ニポカント立ッテイテ、面白クモナイ絵馬眺メナガラ、ドウシヨウカナア、ト心定マラズ、定マラヌママニ、フラフラ歩キ出シテ腐リカケタル杉ノ大木、根株ニマツワリ、ヘバリツイテイル枯レタ蔦一スジヲ、ステッキデパリパリ剥ギトリ、ベツダン深キ意味ナク、ツギニハ、エイット大声、狐ノ石像ニ打ッテカカッテ、コレマタ、ベツダン高イ思念ノ故デナイ。ユライ芸術トハ、コンナモノサ、譬噺デモナシ、修養ノ糧デモナシ、キザナ、メメシイ、売名ノ徒ノ仕事ニチガイナイノダ、ト言ワレテ、カエス言葉
ナシ、素直ニ首肯、ソット爪サキ立チ、夕焼ノ雲ヲ見ツメル。
 アナタノ小説、友人ヨリ雑誌借リテ読ミマシタガ、アレハ、ツマリ、一言モッテ覆エバ、ドンナコトニナルカ、ト詰問サレルコト再三、ソノタビゴトニ悲シク、一言デ言エルコトナラ、一言デ言イマス、アレハアレダケノモノデ、ホカニ言イ様ゴザイマセヌ、以後、ボクノ文章読マナイデ下サイ。
 千代紙貼リマゼ、キレイナ小箱、コレ、何スルノ? ナンニモシナイ、コレダケノモノ、キレイデショ?
 花火一パツ、千円以上、ワザワザ川デ打チアゲテ何スルノ?
 着物、ハダカヲ包メバ、ソレデイイ、柄モ、布地モ、色合イモ、ミンナ意味ナイ、二十五歳ノ男児、一夜、真紅ノ花模様、シカモチリメンノ袷着テ、スベテ着物ニカワリナシ、何ガオカシイ。
 アワレ美事! ト屋根ヤブレルホドノ大喝采、ソレモ一瞬ノチニハ跡ナク消エル喝采、ソレガ、ホシクテ、ホシクテ、一万円、二万円、モットタクサン投資シタ。昔、昔、ギリシャ詩人タチ、ソレカラ、ボオドレエル、ヴェルレエヌ、アノ狡イ爺サンゲエテ閣下モ、アア、忘レルモノカ芥川龍之介先生ハ、イノチ迄。
 ケレドモ、所詮、有閑ノ文字、無用ノ長物タルコト保証スル、飽食暖衣ノアゲクノ果ニ咲イタ花、コノ花ビラハ煮テモ食エナイ、飛バナイ飛行機、走ラヌ名馬、毛並ミツヤツヤ、丸々フトリ、イツモ狸寝、傍ニハ一冊ノ参考書モナケレバ、辞書ノカゲサエナイヨウダ、コレガ御自慢、ペン一本ダケ、ソレカラ特製華麗ノ原稿用紙、ソロソロ、オ約束ノ三枚、三枚、ナンノ意味モナイ、ズイブンスグレタ文章ナノニ、ワカラヌ奴ニハ、死ヌマデワカラヌ。シカタノナイコト。
(引用終わり)
というわけでですね、言葉にも花火のようにそれがなんの意味があるかといわれても困るけれど、なにかが込められ、何かが伝わるという側面があるということなんです。言語にとって美とは何か。それは生活にとって花火とは何かということです。それが文学とか文学者というものの存在理由なんだけど、それは声高に主張するものではないわけですよ。言葉の意味という表通りに出られないひっそりしたもんだから。
意味がないのに込めるものとか、意味がないのに受け取るものというのは、黙っている時に感じているものに近いでしょう。つまり黙っているという胸のなかにも何かがあるわけでしょう。だから沈黙ってものが込められることも、沈黙が受け止められることもあるんですよ。黙っていたって分かりあうってやつです。言葉を価値としてみるならば、言葉の本質は沈黙です。
いかがでしょうか。言葉に意味があるとかないとかいう言い方で何を言いたいかがこれでふっとわかってもらえれば幸いです。それが分かれば吉本の言語論というものも、よく読みさえすれば分かります。