「文学から僕は倫理を学んだ。恐らくは作者の意図に反して。だが、恐らくは作者の苦しみに即して。」(風の章)

文学者でもミュージシャンでも漫画家でも、あるいは身近な家族、友人でもいいですが、本当に気に入って追いかけたり深くつきあっているとふっと分かることがあるでしょう。それはその相手自身ももしかしたら気がついていないことだったりするでしょう。それは無意識に属することだからです。しかもその相手の人が一生懸命主張していることや、やろうとしていることじゃないところで、なんかその人がふっとわかったという気になることがあるでしょう。それはその人の宿命が感じられたということだと思います。その人の意思や意図に関係なく、もっと奥底でその人自身もどうしようもないものが突き動かしていることへの直観です。その人のその自身の宿命との無意識の格闘が、その人自身が自覚していなくても、誰にも理解されなくても、その人の人生の最大の苦しみなんだと思います。その人それぞれの根底で、それぞれの人をどうしようもなく決めてしまっている宿命をどう呼んだらいいでしょう。それを吉本は倫理と呼んでいるわけです。
倫理とは通常善悪のことですが、善悪も深く考えてみれば、意思や意図を超えて人を引きずりまわす宿命が生み出すものと考えることが出来ます。避けよう避けようとしても犯してしまう悪もあるでしょう。そのどうしようもない人間性の根底を倫理と呼んでいます。

おまけです。
ジャン・ジュネ」           吉本隆明
(略)
青眼 何てこと仕出かしたんだ?なにもしねえモーリスを絞め殺して?つまらぬことで殺して?名前が欲しいばっかりじゃねえか!
ルフラン 青眼・・・・・・見殺しにしねえだろうな?
青眼 もう話しかけないでくれ。触らないでくれ。不幸ってものを知ってるのか?そいつを避けたいとおれがどんなに思ったか分からないのか?自分ひとりで、天の助けもなしに、おれくらいの大物になれると思っていやがったな!おおかたおれを追い越せるとでも?生憎なこった、追い越せる筈はねえと気が付かねえのか?おれは全然望まなかったんだ、いいか、おれの身に起こったことは何一つ自分の望んでやったことじゃない。全部向こうから呉れたんだ。神様か悪魔からの贈物だ。どっちにしろ欲しくなかった代物だ。それが今、こうやっておれたちはこの死体を持て余している。
ルフラン (最初は打ちのめされていたが、立ち直って)分かった、分かったとも青眼、あんたとはどうしても一緒にやってゆけない。だが、誰よりもおれは強いと言ってくれないか。望んでやったんだから、おれは犯罪を取り消すために踊る必要はないんだ。
青眼 それが危ないんだ。ふらふらとその気になって小僧っ子を殺(バラ)す!おれは・・・・・・こんな犯罪人の名を口にする元気もねえや・・・・・・おれはな、自分が小娘を絞め殺してるとはまるきり気がつかなかった。無我夢中だった。誰かに追いつこうなどという気はなかった。何もかも運任せにやったんだ。どじを踏んで落っこちたのさ。    (ジュネ「死刑囚監視」)

 死刑囚「青眼」がかってやった小娘殺しには<不可避>な失策、あるいは失策の<不可避>さがあった。<強いられた必然>を<偶然>の手ちがいと呼んでもよい何かがあった。だがルフランの殺人には<ひけらかし>の<偶然>、いいかえれば<ひけらかし>に駆りたてられた偶発的な意思が介在しているだけである。ルフランは、じぶんが意思して同房のモーリスをやったのだから、倒錯した価値観の世界で、たれよりも<強者>になったと錯覚している。しかし文字通りの錯覚でしかない。倒錯した価値観の世界で<いと高き>価値を与えられるのは、強いられた失策から殺人を犯した「青眼」のような殺人者であって、ルフランのように死刑囚「青眼」のところまで跳躍したいと<意思>して、同房のモーリスを絞め殺した者ではない。なぜなら「青眼」には望まないのに仕方なしに殺しをやってしまったという堅い<現実>が加担しているのに、ルフランの絞殺には、せいぜい<主観>が加担しているだけだからである。
(略)