「(カール・マルクスの資本論について)僕はこの極めて抽象的であり、同時に原理的である論理の発展法が、僕の思考の原則に一致するように思はれた」(カール・マルクス小影)

この初期ノートの文章の前に書かれていることは、マルクスの思想の多くの間違いがあったとしても、逆に完全に間違いがなかったとしても、それは自分(吉本)にとって重要ではないという文章です。ではなにが重要だったのか。それが続きのこの文章になります。要するに自分の考え方の原則と同じだったということが重要だったということです。マルクスが考えた結果よりもまずマルクスの考え方の方法が、自分がやってきた考え方とぴったりだったという喜びが重要だったわけです。
つまり吉本は自分と同じような考え方をする人に出会えなかったのだと思います。特に吉本は理科系の人ですから、理系の人の中で社会について深い関心を持つ吉本は孤独だったでしょう。だから文科系の書物の中に同じ考えをもつ人を求める。しかしそれでも同じような考え方をする人にはなかなか出会えない。しかしそもそもなんでそんなに孤立した考え方になるんでしょうか。
吉本に限らずもっと一般的に言えることですが、考え方が孤立するという原因には、この世界の暗黙の了解が分からないということにあるような気がします。暗黙の了解は黙契とも言います。私もこの暗黙の了解が分からなかったという小さい頃からの経験があります。子供の頃他の子供たちと一緒にいて、なんか食い違うものを感じます。この場所ではこういう振る舞いをするものなんだとか、こういう状況ではこういうことを言うものなんだとかいうことについて、私はちんぷんかんぷんでその都度うろたえて失敗しているのに、他の子供たちは何でかしらないけど暗黙の了解に従ってそつのない行動をとっている、そんな感じをもちました。この暗黙の了解は学校で教わることでもないし、文章になったルールでもないし、目に見えるものではない。しかしなんかそういうものが他の子供たちにはあって、なぜか私にはわかっていない、そんな感覚です。こういう感じがふっと分かる人は私の同類でしょう。また吉本の同類でもあると思います。
それから暗黙の了解にもいろいろな違いがあって、それを嗅ぎ分けて子供たちはグループを組むような気もします。互いのつきあいの中でふっとその暗黙の了解の差異を感じ、合う奴合わない奴というものができる。それからそもそも暗黙の了解についてちんぷんかんぷんの奴はどこのグループからもはじき出されて、そいつらはそいつらで群れたりする。たいていは文学とかが好きで、今ならアニメや漫画が好きでというオタクの群れを。しかしそういう表現の世界に惹かれてのめりこむと、表現の世界はさらに人間を個のあり方に追いやりますから、よりいっそう孤立していくことになりやすい。やれやれですねρ(-ε- )
暗黙の了解から隔てられて何が辛いかというと、やはり寂しいわけです。一番身近な仲間が大事で、仲間と共にワーッとやりたいし、仲間とともに泣いたり笑ったりしたい時期に、ワーッとなる基盤のようなものから隔てられている感じです。吉本が大衆というものから自分は隔てられているということをよく書きます。しかし大衆の生活のあり方が自分にとって一番重要なものなんだと書くわけです。それは私にはよく分かります。銭湯に混じるように、お祭りに混じるように、地元のふつうの生活の中に混ざり、様々な人たちとつきあって、やんちゃしたり喧嘩したりふざけあったりして地元の小さな宇宙を胸いっぱいに吸収していきたいわけですよ。そこにはとても重要なものがあるはずです。哲学だの思想だの政治運動だの、そんなものはどうでもいいわけで、なによりも地に足をつけて暮らしている身近な地元の生活の世界を全身で味わって青春期までを通過することが重要だと思います。大衆というのはそういう人たちです。それでそういう人たちは文化の世界や政治の世界や知の世界にあまり登場しない。したがって最も重要で、もっともゆたかな心の姿はもっとも深く隠されているわけです。無名性の領域ってものの中に隠れているわけでしょう。
しかし同時に暗黙の了解は、この世界の秩序を支える基盤でもあります。この世界の一皮剥けば権力と利害と殺戮とがびっしりと貼りついた支配被支配の秩序を支えています。その支配秩序は観念としての最上位では国家、法、宗教という形をとりますが、幻想としての最下位では子供たちの中にさえある暗黙の了解までの幅をもっています。暗黙の了解の中には人類が保存してきた、地に足のついた知恵があり、共に生きる大衆の理想のイメージがあり、同時に支配秩序を支える愚かさもあるわけです。それが吉本に見えたのは戦争が多くの犠牲者を出して終わった時です。
暗黙の了解から隔てられたのは、おそらくは幼いときの傷の問題です。それが共同性の幻想から隔てさせたものです。隔てられた者は、個に追いやられます。追いやられた者が世界を獲得しようとすれば一から自分で考えるしかない。思想というのはそういうあがきだと思います。だから思想や知の世界は、あるがままの世界より常に小さな世界です。しかし追いやられたがゆえに、大衆の世界が視える世界でもあります。吉本は大衆の世界から隔てられ、大衆の世界への愛と疑惑を抱きながらこの世界を一から考え始めるしかなかった。だから考え方が孤立してしまうのだと思います。
一から考え始めるということは子供のようになんで?なんで?と果てしなく問うことです。暗黙の了解の裂け目のようなところに落ち込んで考えるからです。そのなんで?なんで?という素朴にして孤独な問いに答えるのは、同じように素朴にして孤独な問いを極限まで追求した人物です。それが吉本にとってのマルクスだった。だから吉本にはマルクスが人間として分かったのだと思います。今日はなるべく短めにしてみました