「人間は支配の秩序に馴致された精神の秩序を有ってゐる。名誉欲、金欲、支配欲。だから性欲はいちばん純粋なものだ」(断想Ⅵ)

性欲は今の吉本の考えに沿っていえば、純粋であるというより人間の中の動物性を根底にしているものだということじゃないかと思います。動物に性欲があるように人間にも性欲があるわけです。しかし性愛の対象がこの異性じゃなきゃダメだというような意識は、動物性の否定としての人間的な意識なんじゃないかと思います。それが人間を猿の祖先から枝分かれさせていった根源じゃないかと吉本は言っています。そういう意味では性欲とか性という領域は、人間をもっとも根源に遡らせるものだと言えると思います。名誉欲や金欲・支配欲についての優れた文学はないけれど、男女の性愛についての優れた文学はたくさんあるのはそのためでしょう。

おまけです。前回のヘンリー・ミラー論の中の一節です。吉本とヘンリー・ミラーの思想が深いところで交差した箇所といえます。


ヘンリー・ミラー           吉本隆明

(中略)
だが、「北回帰線」を<歌>だとすれば、「南回帰線」は大河のように圧してくる<散文>である。すでに「南回帰線」には、蛇の腹のような大河のうねる処で、小さな泡はどう舞って消えたか、水の色はどう変化したか、というようなディティールは削除されている。だから、この<散文>は、同時に<思想>である。「南回帰線」のなかで、わたしを引き込んで渦巻く大河の流れの底まで覗かせるようにおもわれたのは、つぎの個処であった。

 私たちに毎日厚いパン片をあたえるためには、親たちは重い罰を受けなければならないのではないか。そして最悪の罰は私たちと疎遠になることである。なぜなら、親が私たちに一片のパンをあたえるたびに、私たちは親に無関心になるばかりでなく、次第に親よりも立派なものになって行くからである。恩を忘れるところに私たちの力と美とがあった。私たちは愛情にこだわらないおかげであらゆる罪悪を知らずにすんだ。(中略)それに反して、パンのためにあくせく働くのは、なんとなく卑劣な、いやしむべきことのように思われた。そして、私たちは両親のそばにいると、彼らが不潔に思われ、はげしい反発を感じた。毎日おやつに食べるあの厚いライ麦のパンは、正確にいえば、われわれが働いて手に入れたものではなかったがゆえに、たいへんおいしかったのである。

(ミラー「南回帰線」大久保康雄訳)

新約聖書ならば、ここの認識に到達したとき、弟子ペテロは激しく泣くはずのところである。そして、ヘンリー・ミラーは、まさしく、ここのところで泣いている。ということは「南回帰線」が文学作品として世界の一級品であるかどうかはべつとして、<思想>として視るべきものは視ている、あるいは視るべからざるものを視てしまっている一級品であることを語っている。やがて、「私のいとこのジーンは、全然くだらない人間になってしまったし、スタンリーは最低の落伍者になった。かっての私の最大の親友であったこの二人のほか、もう一人の友人ジョイは、いま郵便配達人になっている。私は、なにが彼らの人生をそんなものにしたかを考えると、泣けてくるのである。子供のころの彼らは実に立派だった―」(「南回帰線」)。そうだ、「なにが彼らの人生を」だ。それを知っている
ことが、ミラーの深い井戸であった。