「自分自身を救済すべくにんげんはその青春を費やす。その結果がどうであるかぼくは知らない。ぼく自身の孤独のなかに誰もはいることはできない」(断想Ⅶ)

孤独とここで言っているのは友達がいないとか、会社で上司から嫌がらせを受けているという孤独のことじゃないですね。自分が自分自身と自問自答するような、自分との対話ってあるでしょう。あなたもやってるでしょう。「自分の世界に入っちゃってる」とかよく言われる状態です。その内面の世界のことを孤独と呼んでいると思います。その内面の世界には誰も入ってくることはできませんね。まためんどくさくて入っていきたくもないでしょう。その世界を表現するには文章とか音楽とか絵とかを描くことになります。それは吉本が自己幻想と名づけた世界であり、心の領域です。そういう世界があることは疑いえない。
すると大切なことは、自分以外の人間にも自分と同じように孤独があるということですね。そのことに目覚めることがきっと大切なんですよ。吉本はどこかでその目覚めについて書いていました。表現をするかどうかに関わりなく、誰もが誰も入ってこれない孤独の領域を抱えている。自分だけが孤独なのではなく、あのサラリーマンのおっちゃんも、この買い物帰りの主婦も、人間はそういう意味では普遍的に孤独なんだっていう、そのことに気づいた時に人間が分かった気がした、というようなことを書いてます。
ではなぜ人間は果てしなく自分の世界に入っちゃって自問自答したりするのでしょうか。それは自分って何者なのかを知りたいからじゃないでしょうか。少なくともそれは大きな理由のひとつだと思います。物心がつくころになると、自分って何者なのか、何者になれるのか考え始めます。友達の間で、学校のクラスの中で、テレビやインターネットの情報の中で、自分は何者なんだ?と考える。
そして青春の右往左往が始まるわけです。ああ思い出すのも恥ずかしいや(/ω\)
そして失敗が繰返されます。ちっとも自分のなりたい自分になれない。乗り越えたい乗り越えたいと思うのに、いつも同じところにずり落ちてくる。逃げても逃げてもまた同じ出発点に戻ってくる。とうとうあきらめて、そこに座り込んで考える。要するにこれが俺が何者かという答えなのかと。自分の中に自分ではどうすることもできない、血管の中をめぐるような真実がある。それは自分が物心つく以前から形成されたものであるがゆえに、自分が超えようにも超えられない宿命だ。それが自己資質と吉本が呼ぶものです。人間は自分との自問自答の果てに、自己資質という宿命に気づく。それがある意味では救済です。なぜなら一つの旅の終わりを意味するから。浮き上がった思考が、動かしがたい地べたに降りることだから。さてそこからどうなるかは、分からない。宿命に逆らわずに生きるのか、果てしなく宿命を超えようとして生きるのか、それは人それぞれだからです。だいたいそういうことがこの初期ノートの意味なんじゃないかと思います。
人間が自分の宿命、自己資質に気づくということが、自分の内面への旅だとすると、自己資質に気づいた時にひとつの旅が終わり、そこから内面の外側に存在する客観的な世界への旅が始まると思います。内面の操作だけでどうにもならないものがあることに気づけば、それを強いてくる外部というものに目覚めるからです。そして政治や経済、歴史といった社会的な外部から、精神分析とか芸術とかいった内面の世界を普遍性として追求する外部に至るまで、自分の宿命の外部はどうなっていて、どうして自分は自分であるしかないんだろうか、という探求が始まります。このカウンセリングゼミに来る人も、たぶんそういう外部を知りたいんじゃないでしょうか。
私自身について考えると、私は簡単に言って母親との幼い時の関係で傷がついていると思ってますね。だから人との関係すべてに怖気づくような自己資質を持っています。そうは見えない?(・∀・)あら、おれは意外とねシャイなんだよ。体はサイみたいだけど(´・ω・`)
右往左往していろいろな自分からの逃げ道を探した青春時代も、結局薬局自分というものの根底は変わらないという自覚をもたらしただけでしたね。それから父親との関係で傷がありますね。私の父親は議員だったんで、庶民というより政治団体の構成員だったわけです。そのこと自体が傷ですね。政治の思想というものはどんなインチキなものであれ世界全体をおおう普遍性を装っています。それは宗教が宇宙をおおう普遍性を装っているのと同様です。その装われた普遍性をびりびりと引き裂いて、その外側に出たいというのが父親との葛藤であり傷ですね。ただそれは思想の問題だから、よくよく勉強したりしたら変えられるんですよ。また時代が敵であったはずの思想を無効にしてくれる面もあります。しかし母親との関係の傷は難物ですね。
私の考える母親との傷から来る宿命の超え方は単純です。それは与えられた家族ではなく、自分が新しい関係を作ることで超えるというそんだけのことです。お互いを好きであるという、お互いをなによりも大切に思うというそういう関係を作れるならば、母親との傷から生じた自己資質の世界は消えはしないだろうけど、変わると思います。つまり自己資質をつまり無意識を新たに作るということになります。愛によって。なんちゃって(/ω\) 離婚したばっかの奴の言うことじゃないよな・・・
好きあう、許しあう、信じあう、そういった性の関係を作りたかったのに人生のしょっぱなから壊されてしまった、その後も作りかけては壊れてしまった、今も壊れていて多くの人との関係はあるのに暖かい性の関係がない、そういう状態っていうのは、嫌になるほどたくさんあるのに隠されていますよね。それは一つ一つの家の屋根の下や、部屋の中に秘されていて、誰もそんなことぶっちゃけて告白しませんから。世界恐慌や政界の話題や三面記事のニュースは氾濫しても、誰も自分たちの生活の、畳やカーペットに下に真っ黒に広がっている暗黒のことは語らない。なぜなら、孤独の中に誰も入ることはできないから。でもそれが人間にとって世界恐慌なんかよりも格段に痛切な第一義の問題なんだという観点を、思想として持つことはできます。それが外部を学んだ自己資質の旅の成果だと思います。