「人類は未だ若い。まだあの前史は終っていない。矢張り搾取なき世界で、各々が暁の出発をはじめるとき本当の歴史が始まるだらう」(風の章)

「あの前史」と言っているのはマルクスの思想の概念で「人類の前史」という意味です。前史が終わると本史が始まるだろう、と考えられています。前史は搾取というものがある歴史で、本史は搾取のない歴史として始まる。それからが各々、つまり一般大衆が、それぞれの自由な生き方を始められる本当の歴史が始まるという意味でしょう。搾取というのは、製造業をイメージしてもらうと分かりやすいですが、土地があって工場があって昔風に言えば工員さんたちが機械でなんかを作ってる、生産してる。その土地や工場や機械は生産手段です。生産手段は工員さんたちのものではなく地主や会社のオーナーたち、つまり株主たちの所有物です。生産して生み出された生産物をお金にしたものは、一部は工員さんへの賃金として支払われますが、残りは地主や株主に支払われますよね。工員さんたちが労働して作り出した価値なのに、労働していない地主や株主が賃金以外の部分の価値を取っちゃう。それを搾取というんだと思います。これはマルクス経済学の概念です。
初期ノートのこのあたりの部分は1950年頃書かれているそうです。1950年というのは敗戦後5年、吉本は25歳くらいです。敗戦の時にはたちだったんですね。
吉本は敗戦までは軍部の戦争遂行のイデオロギー軍国主義というものを信じていました。それが敗戦で一気に崩れて、マルクスを読んだのは敗戦後でしょう。
5年前までは軍国青年だったのに、5年後にはマルクスの人類の前史が革命によって終わるという考えを信じている。つまりこれは思想の転向です。吉本自身もそのことを批判されています。お前は戦時中は軍国主義だったのに、戦後は左翼になってコロコロ変わるのはおかしいじゃないか、という批判です。吉本が批評家としてジャーナリズムに登場した最初のテーマは文学者の戦争責任論や転向論です。つまり転向、平たく言えばこの場合戦争または敗戦といった社会の激変によって、考え方が大きく変化するという問題が吉本の最初のテーマだったわけです。
吉本が転向について言っていることは明快です。思想が変わるということは別に悪いことではない。それは社会を捉えそこなっていた部分があったことが分かったから変わったんだ、ということです。バカだった部分があったから変わるわけで、恥ずかしいことだけども考えが変わることは、バカのまんまよりはマシだということです。しかし肝心なことは、何故どのように変わっていったのかという経緯が明らかでなければならない。特に思想を一般大衆に対して公開している者、政治家とか学者とか吉本もそうであるような物書きとかは、その転向の経緯を公開しなくてはならない、と考えています。吉本自身は自分が日々書いてきた詩や散文を辿れば、自分が何故どのようにして考え方を変えていったかを辿ることができるはずだと言っています。実際読めば辿ることができます。
これは当たり前のようだけど、それをしないで戦中戦後の断層を素通りして、突然戦争中とは180度違ったことを言い出す連中が多かったんだと思います。その都度の支配的な思想に反省もなく思想変化の公開もなく乗り移る、みんなで渡れば怖くないみたいな感じで集団で乗り移る、それで政党として学者として物書きとして通用しちゃう、それは許せないということですね。だってそういう連中は、また時代が変わればいつの間にかコロッと違うことを大衆に向かって言い出すに決まっているからです。吉本が怒ったのは、戦争で大勢の大衆が死んだし、吉本自身も徴兵されれば死ぬんだと思いつめて生きてきたからです。人の死という重さに照らして、思想を公開して大衆に影響を与える人間が、そんな無責任なことでいいのかよということです。この知的な悪習は今でもちっとも変わりませんし、私たちのように別に指導者的でもオピニオンリーダーでもない大衆自身でも、自分自身に対して明らかにせずにコロリと考えを変えてしまいがちなことがあります。だから大事な原則ですね、考えが変わることは結構だけれど、何故どのように変わったのかは分かっていなくちゃならないという原則は。
吉本の思想変化は日本軍部の思想からマルクスの思想に移っていったということです。それは日本軍国主義の思想よりも遥かに大きな思想としてマルクスの思想があったからです。つまり思想としてマルクスの思想の中に、日本軍国主義の思想が包み込まれてしまったからです。あるいはアメリカの占領軍政策が体現したリベラリズムの思想の中に包み込まれてしまったからです。軍事力として負けて、政府が負けたというだけでなく、思想として負けたという意味が重要です。
思想は、より包括的な大きな思想にしか負けません。そして負ければ、その負けた思想から出て大きな思想の中に入っていかざるをえないものです。それは世界をより正確に捉えたいという人間の人間的な本質力だからです。そしてその変化の過程が明らかにされなくてはならないということは、今までの負けた思想の内部の概念が、より大きな思想の概念にどう移っていったかを自己点検することだと思います。なんとなくこっちのほうが正しそうだ、だって偉い先生や指導者が言ってるからってことじゃダメなわけですよ。例えば日本軍部の思想の中のアジアという概念、国家という概念、生産という概念、なんでもいいですが、そうした重要な思想の概念が、マルクスの中ではどうなっているのか、マルクスの言っているほうがなるほど遥かに包括的で徹底的で正しいなあ、という点検の過程が思想変化の過程であって、マルクスを読んだらいつのまにかマルクス主義者になっていたというのはダメよ(T^T )という要するにそういうことだと思う。
マルクスなんて読んだことないという人は多いと思います。特に今どき読む奴いるのかな。私の若い頃は読んでないとちょっと恥ずかしいっていう雰囲気があったんですが、昨今は流行りませんよね。私だってちゃんと読んだわけじゃないけどね(/ \)
そこでご迷惑でしょうが、マルクス自身の文章を貼り付けますので読んでみてください。人類の前史が終わるという言葉は「経済学批判」という著書の序説にあるんですよ。いきなり取っ付くと難しいっちゃ難しいけど、でも案外思ったほどチンプンカンプンでもないぞと思っていただきたいですね。言い回しの固すぎる感じは翻訳だからということもあると思うんです。マルクスの文章のなんといういか、正確でありながら要を得ているというか、規模の大きな本質的な指摘だけでぐいぐい進むというか、容赦なく客観的な真実をズバリと言うというか、それでいて表現のセンスがとてもいい、そういう格調というものを感じてもらえればと思います。ではマルクスの文章です。
「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。大ざっぱにいって、経済的社会構造が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである」(マルクス「経済学批判・序言」)