「若し搾取なき世界が実現するとすれば、今日存在してゐる社会機構とは全く異なった次元で実現されることは確かである。今日人類がとってゐるあらゆる社会形体は、殆んど良きものの萌芽を見出すことが出来ない」(少年と少女へのノート)

社会とか社会機構というのは、アジアの民である私たちには第二の自然のように感じられるものです。つまりあまり考えることの苦手なものです。その社会機構を正確に捉えようとするだけでなく、今ある社会機構とは全く違った次元にある社会機構を想定する、空想するんじゃなくていわば理論的に想定する、そういうことの新鮮さが若い吉本を揺り動かしていると思います。マルクスの思想の、人類史という規模の巨きさと、それを徹底的に論理的科学的な方法を駆使して分析して、その果てに感性の秩序に新鮮な次元の存在を感じさせるところまで突き進むという総合性が吉本の心臓を射抜いているんだと思いますね。
感受性と論理ということで言えば、まだ感受性の中をふっと通り過ぎるものでしかないものを重要視して、それに論理を与えようとするのが詩人であり思想家である吉本の方法です。このあいだ吉本の「柳田国男論」を読み返していて、その序に書いてあることがまさにそういう感性の論理化の具体例だと思いました。それをおまけにどうぞ。

柳田国男論」             吉本隆明

体液の論理 序にかえて

体液の流れみたいな柳田国男の文体を読みすすんでゆくと、きっとあるところまできて、既視現象に出あった気分にさそわれる。あっ、この感じにはいつかも出あったとおもうのだが、形が与えられないうちに、その瞬間がわたしを通り過ぎてしまう。この思いはいつもおなじだ。この瞬間に感じた既体験感に論理を与えられたらというのは、長いあいだの願いみたいにおもってきた。だがここが既視現象みたいだと比喩したゆえんだが、この瞬間の感じは、反省的な姿勢にはいると痕かたもなく閉じられてしまう。いまここでは柳田国男を論じようとしているのだ、すこしは道具だてを準備して、この瞬間を言葉でとらえなくてはとおもった。
そこでノートを手元においてメモしながら、既視現象の感じに出あう瞬間をつかまえようとした。こんどはいくつかの箇所でうまくその瞬間をつかまえたようにおもえた。どうしてもそこからはじめなくてはとかんがえる。だがこの既体験の感じは、いまその瞬間をメモにしたノートをまえに、論理的な構えをすると、何となくほんとは興奮が過ぎてしまったのに、無理して興奮のさ中を再現しているみたいな空虚におそわれる。これではとてもうまく論理が流れてくれそうもないという気がしてくる。だがとにかくそこからはじめなくてはならぬ。さもないと、柳田国男の文体と方法が与える力の感じ、たしかにここにかれの思想の核心があるという感じを、言葉にできないままに、かれの民俗学的な業績などを分類して白けた論理をはこぶことになってしまう。柳田国男民俗学的な成果など、できれば論じないで済ましておきたいくらいだ。だがわたしに既視現象の感じを強いるかれの文体と方法にはどうしても形をあたえたい。」