「教会と国家――神権と政権との結合に奉仕してきたあはれな人類!」(「エリアンの感想の断片」42ページ)

教会と国家というのはヨーロッパの話で、吉本の言いたいのは日本のことだから要するに天皇という問題です。天皇ってのは何なんだ、という問題はぶっちゃけ私たちの世代にとっては関心の少ない問題です。天皇とか天皇家というのは、テレビで見るアノ人たちですね。ご体調を崩されたとか、ご公務にお出にならないとか、幼稚園の運動会にお出になられたとかどうとかこうとかという最上等の敬語によって語られるニュースに登場するアノ人たちですよ。アノ人たちのあり方を支える制度を天皇制と呼ぶわけです。天皇制を徹底的に否定する人もいるし、徹底的に擁護する人もいる。擁護するだけでなく、その正しさを示すために自分の腹をかっきってみせた三島由紀夫のような文学者もいる。前の天皇が病気になって毎日下血下血という文字がテレビに流れて終に亡くなった時、皇居の前の広場に集まって土下座をして忠誠を示した大勢の人たちもいた。そしてそれをあざ笑う文化人もいた。天皇とか天皇制というものが、私たちにはぶっちゃけ無関心なものであるにも拘らず、もしかしたら大変なもんなんじゃないかという不安も与えているものであることも否定できませんよね。
天皇とか天皇制という問題にどう入っていっても自由なわけです。そして知的に入っていくならば、相当の重い課題として私たちの背後に控えていることが分かるでしょう。にも関わらず、私たちにはぶっちゃけ無関心な、たまにテレビで見てあーそうなのかと思う程度の事柄です。だからその無関心さから入りましょう。
吉本の世代にとって天皇という問題が大きいのは戦争があったからです。戦争によっていつかは死ぬだろうということが、当たり前の前提になっていた社会に生まれ育ったからです。そして戦争死が、その死の理由が天皇に結び付けられた。
結びつけるしかなかった。その重い体験が、天皇というものを内向的に果てしなくこだわらせる原体験にあるわけです。しかし、俺たちにゃそんなものはない。
ぜんぜんないんでね、最初から天皇というのはテレビでたまに見るアノ人たちの、面白くもないニュースでしかありません。この落差、この断絶の凄さに、きっと日本の地面にひっついた現実の問題の深刻さがあると思います。あくまでも地面にひっついた、ぶっちゃけ話の世界で追求する時、天皇とは、天皇制とは何か。それはどう俺たちの日常に影響するのか。
天皇というのは宗教的な存在です。吉本は生き神様信仰なんだと言っています。
宗教というのは共同の幻想です。そして宗教という共同の幻想は、国家という共同の幻想に移行する、そうヘーゲルは言っているそうです。だったら日本というのは、宗教という共同幻想が国家という共同幻想へ移行していく過程で、宗教性を残した国家の共同幻想市民社会の頭上に抱いたままの社会なんだと言えると思います。じゃあ宗教というものがなんで国家に移るんでしょうか。それは宗教がなくなるのではなく、宗教の中の現実にひっついた利害に関わる部分が分離して国家という幻想になるんじゃないかと思います。神、宇宙、永世、といった膨大な観念とイメージの世界から、現実的な利害関係の調整といった部分を切り離していった過程が、国家なんじゃないかと思います。違ってたら教えてね(ー_ーゞ間違ってたら直すっての。
宗教から完全に切り離された国家を考えるとするなら、それは国家というより政府なんですよ。政府ってのはアイツラですね。テレビでよく見る漢字も読めない総理とか、死刑にしまくる大臣とかそういうアイツラです。アイツラがアノ人たちより俺たちの関心をひくのは、それが俺たちの利害関係に影響を与える権力を握っているからです。
もし宗教性が完全に切り離された政治というものを考えるなら、政府ってのは要するに社会の一部にすぎません。権力があるといっても、俺たちが生産者、消費者、大衆として力を持っている、その力を委譲した権力なわけで、地上のものです。なんとかなるし、なんとかするしかないものですよ。
サブプライムローンの破綻ってものでこのたびの世界恐慌は始まりました。サブプライムローンってのは、要するにアメリカの貧乏人である有色人種たちが、買った住宅ローンが返せなくなったということです。それは土地のバブルが頭打ちになって下降したからですね。かっての日本と同じです。それが世界恐慌の引きがねになったということは、その返せないローン額が膨大だったからです。こ
のことを裏返して考えると、消費者である一般大衆が土地のローンを放棄した、つまり消費をやめたということの影響が世界恐慌を引き起こしたということです。土地を買うのと消費は少し違うけど、まあ細かいことはいいんだよこの際 

(−_−)

吉本が言っている重要なことで、一向に他の論者が取上げないことがあります。
それは消費者が選択的な消費、選択的な消費というのは衣食住という生きていくために必要な消費を必需消費というのに対して、教育とかレジャーとか贅沢みたいな、生活を豊かにする消費をいいますが、それを意識的に意図的に戦略的に行使するなら政権を倒すことができるという観点があります。これはとても重要なことですよ。誰も取上げないけど。それは消費大衆というか一般大衆というものの潜在力が、政府の政権を超えたということを意味しているわけです。この世界恐慌は一般大衆の戦略でも何でもありませんが、その潜在力が世界恐慌を引き起こせるということの証明なんです。私はそう思うな。誰もそういうこと言わないけどさ。吉本の言うように、インテリってのは無意識に政権担当者であるかのような口ぶりでしか社会を語れないんですね。
話を戻しますが、実際に日本ではそこまで国家を、要するにそれは政府だ、というふうに割り切ってみることができない。それは宗教性が国家にまとわりついているからです。それが天皇制というものだと思います。
宗教ってのは怖いものだと私は思います。その怖さは、宗教は個人の心を襲うからです。宗教は集団の共同幻想であると同時に、個人の内面にこれはおまえだけための存在だ、というように侵入する魔力を持っています。それが宗教の怖さだと思う。天皇が戦争期の現実の権力であると同時に、死を覚悟できるかという若き吉本たちの世代の内面の問題であったのはそのことです。アノ人たちに無関心な俺たちもごくごく平凡な日常の問題には深刻に心を襲われます。それは怖ろしいものですよね。そうでしょ。あんたの悩んでるソレを言ってんだよ(>_<。) 
その俺たちのアノ人たちとはまったく無縁そうなソノ怖ろしさから、現実の利害の部分を引き剥がせば、それは弁護士に頼んでみたり、ハーバード交渉術で交渉してみたり、金を払ってみたりもらってみたりなんとか解決できるかもしれない。しかし、それでは解決できずに残る方の、モヤモヤしたドロドロした悩みはどうなるのか。区役所のどこの窓口にも、弁護士のどの委任事項にも、どんな契
約にも念書にも書きえない事柄。心のなやみ。しこり。
それが存在する限り、いま私やあなたがソレに悩んでいる現実がある限り、きっと宗教というものはその怖ろしさとともに消えてなくなることはないと思う。一方で、宗教と政治が合体した団体の嫌らしさは、きっといつか消えると思う。それはもう俺たちが嫌らしいと感じているから。世界恐慌を引き起こせる潜在力をもった俺たちが。
しかし、宗教自体の怖ろしさはまだまだ歴史から消えるとは思えません。それはたぶん宗教がもっている古代思想の思想の規模を、俺たち一般人の考えが包括するという遠大な未来を想定しないとならないからです。俺たちは毎日の暮らしにあくせくしてる。あくせくしながら、自力で永遠、死、宇宙というようなわけのわからない観念を自分の手の中で確かめるように考えることができるようになれ
ば、吉本が大好きだという宮沢賢治の「ほんとうの考えと、うその考えをわけることができれば、その実験の方法さえ決まれば」という言葉のように、俺たちは宗教の持っている偉大さと怖ろしさを超えていけるということになるわけです。
それはアノ人たちも、フツウの人たちとなって暮らしていく未来です。いつになったら来るのかねえ(_ _,)/そんな未来。なんも言えねえ。