「社会思想史は、社会構造の不合理な部分が淘汰されなければならないことを教へる」(「風の章」50ページ)

社会思想史は社会構造の不合理な部分が淘汰されなければならないことを教える。それは社会思想史が観念の歴史だからです。観念は観念にとって不合理なるものを嫌う。それで社会思想史が生み出したソ連中共はどうなったか。あるいはアメリカやヨーロッパは現在どんなすばらしい経済制度を謳歌しているか。ぜんぜんダメじゃん。
そんなたいそうなことを言わなくても、私たちの毎日の親子の悩み、夫婦の悩み、嫌な上司や困った部下、うるさい親族やおせっかいな隣近所、財産の争い、収入の不安、生活の違い、嫉妬ねたみそねみいやみ、そうした問題の中に心をさらっていってしまうような深淵があって、事実さらっていかれて戻れない人たちがいっぱいいるでしょ。そしてそんなこんなの中でぽこぽこぽこぽこ人は死んでいくんだよね。死んじゃうんだ。それは隠されているから見えないだけで、病院とか介護施設に勤めている人はよく知ってると思う。わけのわかんない悩みの中でぽこぽこ死んでいく。ぼろぼろになって死んでいく。それがこの世というもんですよね。
そういうことを見て来て、嫌になるほど見てきて湧き上がる感情。それが思想なんだと思う。ガマンできねえんだよ、という感情が思想じゃないかな。そうじゃなきゃ、そこまでむき出しじゃなきゃ、どうでもいいよ思想だの、思想史だの
(  ・_)

ではおまけの詩をどうぞ。

<不可解なもの>のための非詩的なノート     吉本隆明

きみは不可解なものに 出遭つたことは
ないか たとえばそれは女(おんな)
あるとき喰べかけの蜜柑の皮のひとかけら
を床にちらかしていただけなのに きみは
全人格を疑われることになる そういう
クモの糸を口から吐くことができる存在だ けれど
きみの全人格は きみの
確信するところによればきみの全生涯の
労作である ことによると
傑作であるかもしれない
きみがたつたひと言(こと)をいえなかつたために
<女つたらしでもいえるようなことを>
喪うものは きみの全疲労に匹敵する
きみの確信によれば きみの全疲労は たんに
生活のひだからやつてくるのではない 全世界との
抗いからくるものだ
きみは全世界から否定されることをおそれはしない しかし
喰べた蜜柑の皮のひとかけらの在り方から否定されることを拒絶する

ところで
きみはあるいはまちがつているのかもしれない 蜜柑の皮の
ひとかけらの在り方のほうが全世界の
在り方よりも重要なのではないか?
きみがきみの内部にひとつの神判制度をもつている
として この不可解な問いをどう裁定するか
もちろん探湯(くがたち)も骨占(ほねうらない)も採用しない ただ
人間はじぶんが当面している事柄をもつとも重要とかんがえる
ようにできており その事柄がなんであるかは無関係である
と裁定すればよろしいか?
<どうもちがうような気もする きみのほうに
 奇妙な不透明さがあるときに
 あらゆる対象は重さや大きさの序列をうしなつて
 ただ際限もなく浮動しはじめるのではないか?>
 
われわれは<異議あり>をみとめる ちいさな
眼ざしの動きが世界を革(あらた)めることがありうることもみとめる
けれど<不可解なもの>が世界を支配する
ことをみとめがたい
はじめに相互の<愛>があり
なかほどに<意思>の持続があり
おわりに皮膚のすみずみまでに触知される変形自在な
滲透の支配がある

fatigue,
fatigue,
fatigue,
l'homme de fatigue.

(註by依田)最後のフランス語は私もよく分かりませんが、たぶん
疲労
疲労
疲労
疲労の男
みたいな感じじゃないかと思います。間違ってたら教えてね。