「僕はすべてを抽象に翻訳しようとしてゐる」(断想Ⅰ)

すべてというのは現実ということですね。現実の現象を抽象した概念で捉えようとしているということを言っているわけです。現実というものは様々な要素の混沌としたものですから、それをある思考の方法によって抽象化して抽象化した概念の器に盛るわけです。それが要するに近代の思考であり、ヨーロッパの思考であると思います。
アジアというのは何故かこうした抽象思考を苦手とします。吉本によるとヘーゲルはアジアとヨーロッパの文化の違いを、アジアの思想は要するに自然思想なんだ、自然というものといかに融合するかということがアジア的な思考の本質なんだと言っている。それに対してヨーロッパの思考の本質は自由というものなんだ、自由というのは思考が現実、現実の根底は自然ですから、自然から離脱して果てしなく飛び立っていくのだ。自我というものが自然と融合しないで、自然とは独立した精神の世界を確立していくそういう衝動がヨーロッパの思想の本質だとヘーゲルは言っていると述べています。アジアは自然に戻ろうとし、ヨーロッパは精神の自立性を果てしなく確立しようとする。精神の自立性は何によって確立されるか、それは現実からの抽象という精神の、論理の方法を果てしなく行使することによって行われるのだと思います。すると究極どうなるのか。精神はその母胎である自然を精神によって把握することができるようになる。そして永劫不変であるかのような自然を精神によって変えることができるようになる。その究極の姿は精神というのものが神のイメージに近くなることです。自然を統御し変化させることができる精神の姿です。自然を人間化するという精神の働きを究極的に考えれば、気候とか地震とか噴火とか地形とか水利といった大きな自然の構成も統御できるようになる。そして地球全体を都市化する。自然と都市の共存ということではなく、統御された自然を都市の内側に含みこむような究極の都市化のあり方を想定することになります。
この究極の神の似姿である精神のイメージというのは、アジアの民である私たちにはとても肌の合わないものであると思います。それは、じゃあ太陽を統御できるのかよ(○`ε´○) ということですよ。死を統御できるのか。宇宙を統御できるのか。それはできないことですよ。人間化できる規模を遥かに超えるものが存在するわけです。すると再び東洋の自然思想の中で、ヨーロッパの思想によっていわば外側の眼で批判しつくされた後に残るものはなにか、という問題が出てきます。吉本が西欧思想と共に日本の古典思想を追求したのはその出てくる問題に答えるためだと思います。
現在の世界恐慌アメリカの覇権の終わりだと思います。これは金融や経済の分野での終わりのように見えますが、本質的には西欧的な思想の限界点を象徴するのではないでしょうか。今後の世界経済や金融の中心はどこか分かりませんが、いずれにせよアジアのどこかに移るように思われます。それは西欧を通過した東洋の自然思想の意味という問題と別のことではないように感じます。自然というのは何か。抹香臭くない、抽象性が苦手だから平べったくなったというのではない東洋思想の本質である自然とは何か。西欧の思想が捨てて省みなくなった故郷である自然とは何かという問題が世界恐慌津波に洗われた後の世界に本格的にやってくるような気がします。