「世界は二つの虚偽に支配されてゐる」(断想Ⅰ)

世界は二つの虚偽に支配されているというのは、おそらく世界が資本主義圏と共産主義圏に分かれていて、それぞれの国家圏の為政者が自らの国家圏を正当化している、その正当化が虚偽だということでしょう。日本の国内で言えば、当時の自民党政権の主張もウソだし、社会党共産党イデオロギーもウソだということです。じゃあどうするのかと言えば、新しい社会思想を作り上げなくてはならないということです。
なぜウソであり否定されなければならないと吉本は考えるのか。それは国家、あるいは民族国家というものを前提に二つの虚偽が成り立っているからです。国家というものへの疑いがないがゆえに否定されるということです。あるいは原理的な国家論の段階で否定するといっても同じです。
吉本にとっては国家というものは原理的には否定される。それは大前提であって、確信です。いっきに否定されるものではないけれども、徐々に国家の縛りを弱め、開いていって、未来的には国家が消滅する方向を目指す。それが政治にとっての、あるいは政治家にとっての大前提だという思想です。それはなぜか。それはなぜかを解説するのは大変なんだよね( ̄~ ̄;)
その原理的な国家論はマルクスの思想です。吉本に「カール・マルクス」というわりあいと短い論考があるので是非読んでいただきたいと思います。国家は何故原理的に否定されるものなのか。それはまず国家というものの本質は幻想性だということがあります。実体ではない、観念だということです。どういう観念かというと法という観念としてあらわれます。つまり国家は法という観念が本質なので、その本質である法の具現したものが国会議事堂であったり都庁であったり自衛隊の基地であったり、政治家や公務員であったり、謄本や年金や申告書であったりするわけです。
幻想性というものは人間にとって何か。国家に限らずそもそも幻想性とは何か。
吉本がマルクスに惹かれ思想として信頼するのは、そこまで遡行する原理性を持っているからです。そしてその原理性はマルクスが師として尊敬し、師として批判したヘーゲルの思想に含まれていたものです。幻想性というものは疎外なんだ、というのが吉本の理解したマルクス思想だと思います。じゃ疎外とはなんだ。
やっぱ大変だ(;-_-;)
疎外は人間と幻想としての国家との関係の本質でもありますが、国家の成立というのは歴史がだいぶ進んでのことであって、もっと原初的なところから人間における疎外というものは考えることができますし、またそこまで遡って考えないと分からないものです。原初的ということは何か。それは人間が社会や国家を生み出す歴史以前の段階、つまり人間が自然とじかに向かい合っていた段階ということです。人間と自然との関係の本質は何か、それは疎外関係なんだというのが、マルクスの自然哲学だというのが吉本の理解です。人間と自然との関係はマルクスによれば、人間は対象として働きかける全自然を人間化していく。マルクスの言葉では全自然を人間の非有機的身体にしていくと言っています。そしてその反作用として、全人間を自然の有機的自然にすると言っているわけです。この人間と自然の相互作用が人間だけの特質であり、人間と自然との関係の本質です。この人間の身体と自然の相互関係が身体でも自然でもないいわば架空の領域を生み出します。それを幻想性、あるいは幻想の外化と呼ぶのです。そしてそれが疎外の概念です。なんで生み出すのかは聞かないで。わかんないから(。◇。)
この疎外の概念は人間が自然との相互関係の中で幻想性を生み出すというものですが、原理的な概念であるために、社会や経済、政治のカテゴリーの中で貫徹して使うこともできます。どう拡張して使っても、原理性は失わない。それが原理というものです。この自然哲学である疎外概念を現実の経済の中で使うと、人間と人間の経済的な関係の本質についての概念に変化します。
こっからがめんどくさいです。まず経済社会というものは二重性として存在しているということがあります。どういう二重性か。それは宗教から始まり法へ、そして国家へと発展していく共同幻想性が、あるがままの経済社会実体、市民社会というものの頭の上をおおう雲のごとくに存在しているという二重性です。つまり私たちが働き、ラーメン屋で飯を喰い、家賃を払ってアパートで暮らすという経済社会のあるがままのあり方と、その頭上に国家が幻想性を本質として存在しているという二重性を考える必要があります。この宗教から法へ国家へという幻想性は共同観念の普遍性として存在しているわけです。宗教における神様という観念の絶対性、普遍性が、法はみんなが決めたもので守らなければならない、という普遍性に移り、国家は国民のために存在し、国民は国家のために存在すると
いうような普遍性に発展したものだからです。
この二重性の下部の、あるがままの経済社会において人間が労働という形で自然に大して働きかけるとなにが起こるか。それはマルクスによれば原理的に一貫して自然との相互関係が起こり疎外が生じるということになります。経済社会の範疇では疎外はどのように生じるか。ここでもきわめて原理的に単純な具体的な自然に向かう労働として考えます。すると、「単純な具体的な労働は、加工された自然物(生産物)を、労働者の外に、また労働するという対象化行為を、労働そのものの外に、また総体的に労働する者を、自然の外に置き、そのことによって労働者を自己自身の外に、人間の存在を、その普遍性の外におくという反作用をもたらす」カッコ内は吉本の「カール・マルクス」から写しました。うまく言えないもんこんな複雑なこと(-"-;)
わかります?わかんないでしょ。わかんないほうがマトモですよ。
要するにこんなことだと思うんです。人間というのは自然に対して動物と違った働きかけをします。それは自然を働きかける都度人間化するということです。けもの道を人間の道路にする。それは人間の足の延長に自然を変化させることです。人間の欲望に従うように自然を人間の延長にしていく。それが自然の人間化です。
その働きかけの中で、自然は反作用として人間を自然の延長にしていきます。人間の意識の中に自然が入ってくるということです。人間は自らが働きかけた自然に、反作用として意識を染め上げられていくわけです。そしてその相互作用が生産物を生み出したり、労働という行為を生み出したり、幻想性を生み出したりしますが、それを疎外と呼ぶわけですが、疎外された生産物や労働や幻想性は、それを生み出した人間の本質から言えば外化であり、ぶっちゃけ部分的なものにすぎません。
この部分的な生産物や労働や幻想性が、二重性として存在する共同体の共同幻想である宗教、法、国家の共同観念に取り込まれる時に、部分的な疎外態は普遍的な偽装をほどこされて人間に対する抑圧に転化する。それが国家というものが原理としては否定されるという根拠じゃないかと思います。
なんで宗教、法、国家という共同観念は普遍性を偽装するかというと、それが人間の自己意識の本質にある無限性を疎外したものだからだ、ということになるんですが、さらに分かりにくいでしょう。我慢してください。
吉本はけして日本の左翼の通念では通らないようなことを述べています。これを読んだ若い時の新鮮さと感動をまだ覚えています。なにを言っているのかというと階級という概念について言っているわけです。階級とは資本家階級と労働者階級、ブルジョアジープロレタリアートだという、そのくらいの通念は社会党共産党も当時の新左翼も言っていました。しかし吉本のマルクス理解によるとそれはインチキマルクス主義です。では階級とはなにか。
人間は自然との間で労働の関係に入る。ここで経済のカテゴリーになるわけです。そして自然との間で相互作用を起こす。つまり疎外関係を生じる。「その時に労働する人間は他の人間との関係において、それを表象するほかはない」(「カール・マルクス」)というのです。そして「この他の人間は、資本家として結果的に表象される」(同上)。
これは何を言ってるのか。要するに農場であれ、工場であれ、私有された生産手段の中で労働する人間は、その生産物も労働行為もその私有している人物に私有される。その人物は資本家であるということでしょう。資本家という概念と同時に労働者という概念が成り立つわけです。この労働者と資本家という概念は、あるがままの経済社会、あるいは市民社会の中の概念で、まだ公的な概念ではありません。だからあるがままの経済社会の中では、あるものは労働者であると共に資本家であることもありえるし、資本家であると同時に労働者であることもありえます。この概念はそのままでは否定されるべき概念ではなく、あるがままの経済社会の概念にすぎません。この資本家の概念が社会の二重性である法、国家という共同幻想性の中に取り込まれ、普遍性を偽装した時に公的な意味の資本家階級が成立し、同時に公的に労働者階級が成立します。そしてその偽装された普遍性が人間を抑圧するということになります。だから吉本の理解では公的な階級は国家があるから成立するわけで、逆に言えば国家がある限り公的な階級概念は消滅しないということになります。
こうしたことの根源を吉本がどう捉えているか。つまり根源として人間と自然の相互関係があります。この関係は自然を人間化することです。これを経済カテゴリーに限って言えば、それは労働することで、労働して自然を人間化することです。そして自然の人間化には自然の側からの反作用が生じます。これが疎外です。人間は人間が生み出すもの、自然を人間化したもの、経済カテゴリーでいえば生産物、労働行為、労働にともなう幻想性といったものを人間のあるがままの自然存在というものの外側に生み出すわけです。ニワトリが卵を産むように。そこに幻想性としての区別が人間の心の中に生じます。つまり人間的な本質を自然との相互作用の結果、外化して自分の外に置いたもの、その外化されたものも自分自身だと感じるわけですが、その外化した疎外した幻想、あるいは表現した表象した幻想と、それを生み出す前のあるがままの自分との区分が心の中に生じるだろうということです。その区分の意識は、あるがままの現実的な自分と、無限に神のごとくに延びていこうとする幻想性としての自分の区分というように展開していくわけです。それがあるがままの市民社会の頭上に、絶対的な普遍性を装う国家、法がなぜ存在するかの根底にあるというわけです。
人間は自然に働きかける生き物です。意識をもって自然を人間化しようとする特殊な生命体です。その結果、人間は自然を人間化し、要するに都会にしていったわけでしょう。都会こそ自然を究極的に人間化した自然だと言えます。しかし人間が生み出したものは、結局生み出した人間よりも自然よりも小さな部分的なものだという考えなんです。生み出すされたものが生み出したものより小さいために、人間は果てしなく生み出すことをやめないわけです。キリがないわけですよ、人間の自然の人間化の欲求は。永遠の欲求不満みたいなもんで。
自分流の言い方で言ってみます。人間が原始時代に人間的な意識を持ち始めて、自然に対して芽生えたばかりの産毛の生えたような意識で自然に働きかけはじめた。動物とは違うことをし始めた。そうすると今度はその産毛の生えたような幼いふわふわした意識の中に全自然がどおっと押し寄せてきたでしょうよ。膨大な空の大きさ、夜の闇、嵐の恐ろしさ、けだものとの戦い、死、生誕、そういった意識にどっと押し寄せる全自然の重圧と規模の巨大さに耐えて、長い長い時間をかけて人間は言葉を疎外するようになったんだと思います。
しかし押し寄せる全自然や、意識を生み出したその母体であるあるがままの人間存在というものは、やっぱり人間の生み出した都市や科学や文化の総量をもってしてもどうにもならない規模を持っているんじゃないでしょうか。こういう想いは宗教に似ていますが、私にはそう感じられます。そしていつか人間は人間自身が生み出した偽装の普遍性を超えて果てしなく先に行くものだと思います。ああ疲れた( -。-) =3