「肉体は建設することが出来るが、精神は否定する作用なしには何も産み出すことをしない。」(夕ぐれと夜の言葉)

私は犬一匹とネコ二匹と暮らしています。それ以外の人類の家族はみんな出ていっちゃったんでねρ(-ε- ) だから動物の家族と住んでいますが、動物って連中は毎日おんなじことを繰返しますね。腹が減ったら食い物を探し、発情したら異性を探し、眠くなったら寝てしまう。そんだけですね。今までもそうだったんでしょうし、おそらくこれからもずっとそうなんでしょう。例えば犬は散歩のたびにおしっこを他の犬のおしっこの上にかけて歩きますが、ふと立ち止まって(俺はなんでこんなことしてるんだ?)とか考えてる気配はありませんね。本能にプログラミングされた肉体の欲求に従って、果てしなく同じことを先祖代々繰返すだけです。(おしっこをかけて歩く一生、そんなことに意味があるのか?)などとは思わない。つまり動物であることの中から心が出て行くことはありません。
人間も動物であるわけですから、人間の祖先は猿の祖先と重なるような時代に、我が家の犬と同様に、本能のままに同じことを繰返していた気の遠くなるような長い時間があったと思います。しかし、人間の祖先だけがふと立ち止まって果てしなく繰返される自分たちのあり方に疑問をもったのだと思います。それは心が動物の中から外へ出かけ始めた瞬間です。生命というものは、三木成夫さんの言うところでは、大きく食の相と性の相に分かれるそうです。自分が生きていくための食と、自分達の類が未来へ続いていくための性とが生命のふたつの大きな任務だということです。動物もまた生命であり、人間も生命ですから、やっぱりこの二つの大きな自然というか、本能というか、そういう任務のもとにあると思います。それでその二つの大仕事だけやってればいいわけですし、やれるように自然によって作られているんだから果てしなくそうしていけばいいのに、人間だけがそこから逸脱していったと思います。
そう考えると、人間が動物から分かれていったのは、人間の心だけが繰返す自然のあり方をいわば振り返って見たからです。動物はけして振り返らないのに、人間の祖先だけはなぜか自らを振り返ったと思います。ではなにが振り返らせたのか、というのは超むずかしい問題ですが、それは根源的に言えば、なぜか生命としてここに産み落とされている・…という異和感、恐怖感、居心地の悪さ、生きていること自体の底がないような不安じゃないでしょうか。そのように吉本は考えていると思うんです。ひとたび根源的な異和感から背中を押されるようにして、自らの動物的なあり方自体を振り返ろうとした心は、また気の遠くなるような年月をかけて心自体を拡大していき、言語を生み出すようになるんでしょう。
そして言語を生んだ心は、さらに心、精神といった領域を、動物だった部分の心から切り離して拡張させ、深化させ、精神が精神自体で存在するかのような膨大な文化を作り出すのだと思います。
その動物から切りはなれた心を人間の人間的な心の領域と考えれば、あるいは精神と呼べば、人間の精神の根底にあるものは、存在していること自体への根源的な異和を感じ続ける限り、果てしもなく湧き出す疑問や否定だということになります。「精神は否定する作用なしには何も産み出すことをしない」というのは、吉本がそうした人間の精神のそもそもの出どころをつかまえようとして書いているんだと思います。確かに犬やネコは子犬や子猫しか産み出しませんね。(こんなもの作った)とか言ってネコが工作を持ってきたりはしないです(=^エ^=)
しかしそうすると、人間というのは何でしょうか。人間を地球上の生命体全体の中において見ると、特別に鋭敏な、あるいは異様に過敏な、根の暗い、自分の中に篭る生命だと(+o+)言える気もします。学校のクラスにひとりはいるような、遊びもせずに机を見つめてじっと考え込んでいるような変な生命、それが人間じゃないでしょうか。人間の精神というものは、明るい前向きなものではなく、根源的な異和に駆られた、いたたまれないような、暗いもの。否定に否定を重ねて、異和の根源へと戻り尽くしたいと願望しているようなもの。かもしれません。そしてそんな人間の中でも百年に一度くらいは、とりわけて鋭敏この上ない、根っこに深い暗闇を抱いた、否定の精神の権化みたいな人間が生み出されます。つまり天才とか偉人とか歴史上の人物とかいう連中です。そして彼らが歴史を大きく展開させていくわけです。
しかしながら、人間は人間的な本質だけでできているわけではないと思います。
三木成夫さんの言うところでは、人間にも動物である部分や植物と同じと考えてもいい部分があるそうです。私は休日に時々犬やネコといっしょに昼寝しますが、そういう時は精神の否定性もへったくれもありません。おなかいっぱいだし、ビールでも飲んで気持ちよくごろごろしていたいだけです。さらにうとうとしてくれば、もっと平和におだやかに眠りにおちていきたいという感じです。そういう人間のもつ動物でもあるし、植物的でもあるという総体性の中に、人間の精神という人間的な本質も同在するのだと思います。さらに普遍化すれば、生命体全体の中に人間の人間的な本質を置いた時、それは何だという問題になると思います。それは資本主義が消費社会に行き着いた今の時代が人間に突きつける問題だという気がします。もしかしたら人類の最後の問いが徐々に俺らのような消費社会のもとの一般ピープルの中にも露出するようになったということかもしれません。