「戦争は、常にすべてのものを単純化せしめる。経済、道徳、思想……。」(原理の照明)

戦争が経済や道徳や思想などを単純化せしめる、ということは言い方を変えると、戦争という集団の目的が、個人個人で千差万別であるべき生活や行動や思考を規制して集団の目的に従わせた、ということです。お国のため、陛下のため、戦地の兵隊さんのため、という目的が個人の生活や内面の最上位に君臨して、誰もが同じような考えや行動を取るようになる状態です。その結果、日本は戦争に負け、多くの戦死者と破壊された社会と、戦勝国に屈従して機能しなくなった政府だけが残りました。
すべてのものが単純化される、という単純化というのは従って、集団あるいは共同体の集団の目的、あるいは集団の倫理といったものが個々人の自由な行動や内面性を押しつぶし乗っ取ってしまった状態のことを指しています。だから単純化とは全体主義とか画一化あるいは無個性化という概念に近いものです。そしてこうした単純化は戦争だけが引き起こすわけではありません。戦争は国家という集団の国民への規制力が最大になった状態ですが、戦争でなくても国家が個人を押しつぶす規制力は存在しますし、国家でなくても集団が個人を規制し単純化する圧力は存在します。そして規制され圧力を受けた個人は単純化してしまうわけです。
個人個人が、すなわち一般大衆が戦争中自分達は単純化させられていたんだなーと気がついたのは戦争に負けた後です。負けたことが教えた面があります。勝った側のアメリカは今でもアメリカの一般大衆を単純化させて、戦争をがんがん続けています。戦争に負けて、戦争にはもう反対だ、平和が大事だ、というのは多くの日本人の実感でしたから、どうしたら再び戦争を政府に起こさせないようにできるかという考え方は戦後の大きなテーマになったわけです。吉本もまたこのテーマを深刻に胸に抱いて現在まで考え続けてきたといえます。
吉本は戦後に生まれてきた戦争に対する様々な思想を検討していきました。そしてそのどれにも心から賛同することは出来なかったわけです。吉本にはそれらの戦後の社会思想は、再び国家の圧力が戦争に向けて強化されれば、その思想を持つ人たちは単純化されて国家の戦争目的に従属するか、あるいはそうした社会思想を抱いて権力を奪ったとしても、今度は自らが国民を単純化させる政府となるものだと考えられたのです。ではどうしたら集団に押しつぶされない個人の思想というものは可能なのか。
吉本は、それは社会とか個人とか家庭といったものを全部同じように、同じ倫理や目的が通るようにみなす事に根本的な間違いがあると考えていきました。人間が社会とか集団の一員として、集団の構成員として考える意識の領域があります。国民としての私とか、社員としての私とか、生徒としての私とかは集団の一員としての自分としての意識をもっている領域です。それから個人が自分自身に向かって自分と対話を繰返すような形で作り上げていく意識の領域があります。
芸術というものはこうした自分と自分の対話の領域から生じるものです。もうひとつ吉本が見出した意識の領域は、個人がもうひとりの個人と一対一の関係で作り出していく意識の領域です。これは広い意味の性の世界です。必ずしも性行為の世界ということだけではなく、広くエロスと言ったらいいような性の世界であり、性の世界であるためにこの一対一の領域では人間は男あるいは女として現れます。このみっつの意識の領域は実際の生活の中では、こんがらがって混合して現れます。しかし原理としてはけして混同してはならないものだ、というのが吉本の幻想論と呼ばれる人間の全精神の領域の大きな把握の仕方です。これはものすごく重要であると思いますが、いまだに日本の社会の中で広く知られたり検討されたりしていないわけです。
この三つの領域をそれぞれ吉本は共同幻想、自己幻想、対幻想という概念で呼んでいます。この三つの領域は違うんだ、そしてそれぞれの幻想領域はどのように生じ、相互にはどのような関係にあるのかということが追求されます。この吉本の幻想論の問題意識というものを踏まえないで、戦争や社会についていまだにあれこれ言うというのが日本の現状です。ダメですよそんなの( ̄_ ̄|||) 戦争を体験し、生涯を賭けて考えてきている先人の思想というものを勉強もしないで、受け継ごうともしないで、なにができるってのか、ですよ。
ここで幻想論を詳しく解説はできませんが、だまされたと思って吉本の共同幻想論というものを手にとって検討してみてください。またぞろ戦争に向かわされていく現在の日本にとって、そうしてひとりで静かに時間をかけて先人の考えの後をたどる時間をもつことは、わいわい集会をしたりデモしたりするよりももっとずっと大切なことです。戦争という現実を破壊し現実に大きな影響を与えるものといえども、その根源は戦争を肯定していく観念であり意識です。そして観念を本当に超えるものはより包括的な観念の展開しかないわけです。それはおれら一人一人が静かな時間をもってやるしかないわけですよね。考え方の圧力を超えるものは、考え方しかないわけです。じたばたするより勉強し、語りあうほうが本質的だと思います。