「すべての現象を基本的な原理に還元すること。原理的なものはすべて抽象的である」(形而上学ニツイテノNOTE)

この「形而上学ニツイテノNOTE」は、初期ノートの中でもとりわけ抽象度と緊張度が高い章です。この文章は冒頭の断章で比較的分かりやすいですが、ここから抽象的な観念をじりじりと辿る断章が延々と続きます。それは潜水に喩えれば、普通の人間だったら息が苦しくなってある時間がたてば水面に上ってくるところを、驚異的な肺活量でさらにさらにと海の奥に潜っていくのに似ています。
言語論や幻想論、心的現象論などが吉本が本気の本気でやった仕事です。それは金になろうとなるまいと、おいしい飯が喰えようと冷飯だけを喰わされようとやりとげた仕事でしょう。それは無償の仕事です。そうした本気の仕事はすべて言葉や精神の原理的な追及であって、その追及の能力と資質を一番感じさせるのはこの章だと思います。この章の吉本の考察を辿ろうとすると、分かる分からない(難しくて分からないところが多いですが)よりも強い印象として、どうしてこんな息苦しさに延々と耐えていけるんだろうという驚嘆を感じます。
私は空手が好きなのでいい年をして空手を稽古していますが、空手に喩えると普通の人間なら耐えられないような稽古を果てしなく自分に課していくとんでもない人というのが稀にいます。他の武道やスポーツにも当然いるでしょう。命をかけ、精神の崩壊のぎりぎりまで自分を追い詰めないと気がすまないという人がいます。吉本の思考の徹底性はそれに似ていると思います。私は途中まではいっしょについていくんですが、息切れがして私が立ち止まってしまいぜえぜえ言っている前方を、どこまでもどこまでもぶったおれるまで続けていく背中が遠くに見えます。その姿にはどうしようもなく心が惹かれてしまうものがあります。と同時に、なんでそこまで心身を追い詰めていくんだろうという了解しがたい驚きもあります。人間っていったいなんですかね?なんで人間は自分の心身を追い詰めて限界までいこうとするんでしょうか。なんで自ら苦しもうとするんでしょうか。
解剖学者の三木成夫の仕事に老年で出会って、自分の言語や精神の原理論を三木の身体の起源論に結び付けようとしている今の吉本を、私は勝手に「最後の吉本」と呼んでいますが(⌒・⌒)ゞそこで三木成夫の業績を辿りながら吉本は人間の人間的な本質を言当てようとしていると思います。それは私が、吉本やぎりぎりまで追い込む空手家に感じるような、なんで人間は苦しみを自ら買うのかという素朴な疑問に正面から答えうるものです。「最後の吉本」によれば、人間(というか人間以前の存在が)が大きな苦しみを越えていこうとしたポイントのひとつは、太古に水棲動物が陸上に上陸し陸上生物として適応しようとした時期です。三木成夫の仕事は、戦慄すべき内容だと思いますが、胎児が胎内でこの人類が人類になる巨大な発生史を凝縮した形で辿るのだということを、小栗虫太郎の「ドグラマグラ」のような文学者の幻視でなく、科学として確定したことです。
水生動物が陸上に上がってきた時の苦しみが、胎児の受胎36日目の変化の中に保存されている。それが悪阻(つわり)の本質だというものです。ぜひ「胎児の世界」という中公新書の三木成夫の本をご覧下さい。
三木成夫の世界的な業績に自分の生涯を賭けた仕事を接続して、吉本はこの胎内の「上陸」の時期に心の発生を想定しています。とすればとにかく人間の人間的な心とは、想像を絶するような苦しみの中で発生してきたということになりましょう。水棲動物が上陸したということは、それまでは一体であった内臓器官と、陸上生活に適応するために激しく変容していった体壁の感覚器官とが分離し、そして分離したままなんらかの関係付けを行わなければならなかったことを意味すると考えます。そこで一体のものが二つに分離された。その分離が人間の人間的な心の発生をうながしたと考えるわけです。
もうひとつの人間の人間的な本質(つまり心)の発生のポイントは、猿と人間の祖先の枝分かれする時点です。猿の祖先から人間に進化する奴らが枝分かれしていった。それは何故か。それを解く鍵は「最後の吉本」によれば、三木成夫の驚くべき洞察である「人間の心身の行為は、自然の呼吸をさまたげなければ行われない」という普遍的な公理にあるということになります。これは田原先生がカウンセリング理論を作る際に、「心停止の不安」という概念で注目し取り入れたところと同じです。人と猿の祖先の中で、自然な呼吸を強烈にさまたげることのできる段階がやってきた時期を想定します。その時期に自然な呼吸をさまたげて、大きな苦しみを自ら買って無理に無理をして言葉を生み出していった猿(の祖先)がいたのだと考えます。言語の発生ということには異様な苦しみを乗り越えるという段階があったし、それを乗り越えた者たちが人間に進化し、それをしなかった者たちが猿に進化していったということです。もうひとつ吉本が辿っていることがあって、その苦しみを求めた理由はエロスだということです。つまり性です。群れの猿(の祖先)の中からたった一匹のメス(あるいはオス)だけを求めるということができる段階、そしてそれを求める衝動が自然な呼吸を自らさまたげ、言語を生み出す根源ではないかという考えに至ります。
胎児ということでもうひとつ苦しみをあげるなら、出産時のえら呼吸から肺呼吸に移るおぎゃあという産声にあらわされる苦しみです。さまざまな苦しみを越えて人間の人間的な本質、つまり心身の構造は成立してきたと考えられます。一方人間の心身の中には人間的なものだけがあるわけではないわけです。三木成夫と「最後の吉本」によれば、人間の中には植物もあるし、動物もある、そして人間的な本質もある、そして最奥の深層には有機的な生物として誕生した自らを打ち消すように、無機物へと戻ろうという異様な揺り戻しの力もある。
満員電車に揺られ、ネクタイをしめて仕事をし、帰りに居酒屋でいいちこを呑み、自宅でエンタの神様を見て笑っているような日常の背後に、人類の発生史だの、人間の人間的な本質だの、その苦しみだのが潜在しています。それを視るのが原理的な思考というものでしょう。とりあえずこんなところでドロンさせていただきます。