「希望の放棄ということは、絶望の消極的受容といふことを必然的に招来する」(風の章)

これはこれだけを読めば、当たり前のことを言っているだけのように思えます。何に対して希望とか絶望とか言っているか分からないから、形式的に読んでしまうからでしょう。しかし、初期ノートのこの文の前後を読むと、だいたいどういうことが言いたいかが分かります。
吉本が希望とか絶望とか言っているのは、戦後の社会をどう考え、どう生きたら自分が心の底から納得できるかという展望のことだと思います。その展望を持てたと思えば希望ですし、展望が見えないと思えば希望を失う。希望を失うことは絶望という精神状態の入り口に立つということです。絶望の奥に進めば、自殺や精神の崩壊が待ち受けているでしょう。
しかしここで吉本が言いたいことは、希望はいいもので絶望は悪い、だから希望を持とう、というようなつまらない歌の文句のようなことではありません。敗戦によって、今まで信じていた世界が崩壊していった。自分の近い将来に予測された戦争による死を前に、命を捨てても納得できるものは何か?と追い詰められ、考え抜いた信念が崩壊したわけです。それは自分の精神が根底からコケにされ無価値と感じられる経験だったと思います。
ここには戦争期に青春を送った人たちの特質があります。物心がついてみたら戦争の最中で、青年になると戦争死を国家に迫られる。戦争を肯定する思想しか社会の中に見出すことができない。当時は当たり前でも、平和の社会から見れば異様な状況で自分の生死を国家とか天皇とか社会とかと取り替えることができるかどうかを各個人が考えることを迫られる時代です。そのことが吉本の感性の基盤を決定しています。私達のような戦争を知らない世代から見れば、なぜそんなに感性の根本に社会というものがあるのだろうと不思議に感じられるところです。私が青年時代に吉本を読んで、違和感を感じたのはそこのところでした。私には社会というのは、特に青年時代には自分の生活や関心の膜の外側にあり、知的興味とか生活の必要という意味では関心を持ちますが、本当の関心は持てない。そういう時期が長かったと思えます。私が社会というものを本当に自分の根本的な精神の関心として感じ、考えるようになったのは率直に言って中年以降です。吉本や吉本の世代の人たちが青年期に辿りついた社会感覚に、少なくとも私自身は中年までの人生を費やした後に辿りつきました。それは私の問題であると共に、時代の問題でもあると思います。
話しを戻しますと、ここで吉本が言いたいのは、展望が持てないと感じることが正当だということです。つまり希望がない。絶望を消極的に受容することを迫られるのが戦後の社会の一員として正当な感じ方だということです。それは戦後の社会を希望に満ちていると称する一切の思想に加担できないという判断です。同時に展望を切り開く思想はないし、自分も見つけ出せないということです。こう書けば簡単なことですが、この判断に至る道筋に敗戦をくぐりぬけた吉本の全思考と感受性と生活とが込められています。
そうした吉本の目が戦後の社会を見るときに、希望を信じる人たちのにぎやかな世界の陰にまわった、暗い、ぱっとしない、少数派の、または集団から疎外されて孤立した人たち、あるいはヤケッパチの、暴力的な、風俗紊乱の人たち、しかし感受性や思考の鋭さが時代を抜きん出ている人たちの姿が発見されます。それは例えば詩の世界では「荒地派」と呼ばれた人たちでしたし、例えば小説においては初期の大江健三郎石原慎太郎やまた埴谷雄高の小説世界でした。政治においては共産党を除名された論客や、全学連の過激派と呼ばれる学生たちでした。また庶民社会においては毎日ネクタイを締めて満員電車に乗り込む、政治に積極的な関心を示さないような戦中世代の多くの人たちでした。絶望ということを感受し、それに個々様々な形で受容したり、抵抗したりしている一人一人の内面の姿が吉本の目に「視えた」と思います。
これは現在でも同様です。社会と個人と家族とが心の底から納得できる考え方、生き方の展望があると主張し、信じ、テレビの司会者やタレントとして大口を叩いたり、舞台で歌ったり映像にしたりしているにぎやかな連中の陰で、展望が見つからない人々の、感性として鋭い、苦しみに満ちた個々の心が「視える」かどうかが思想の資格として問われることは変わりません。
吉本が好きな太宰治の「右大臣実朝」という源実朝を描いた小説の一節があります。これは権勢を誇り時代に君臨した平家のことを指して実朝がつぶやく言葉です。「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も暗いうちは未だ滅亡せぬ」暗いものがいいというわけではありませんが、暗さでしか保存できない時代の真実というものは確かにあります。