「表現はやめることが出来るが思考はやめることが出来ない」(序章)

これもこれだけ読めば、当たり前のことを言っていると思えるだけでしょう。小説家が小説を書くのをやめても、彼は思考をやめることはないわけですから。しかしこれも初期ノートの前後を読めば言いたいことはだいたい分かります。
ここで吉本がこだわっているのは、人の目に映る自分と内面の自分の姿との大きな隔たりです。これはもっと論理として演繹すれば人の目に見える社会とか歴史とかと、その構成員である個々の人の内面との大きな隔たりだとも考えられます。
心は目に見えず、その行動の結果だけが目に見える。そして目に見えた結果からしか人は判断しない。それでは見えない心はどう考えればいいのか。
そこを繋ぎたいと思うのが、表現の衝動というものでしょう。しかし、表現はやめる事ができるが思考はやめることができない。そして表現の世界に参加しようとはしない多くの人々がいる。だとすれば、最も重要なのは表現の世界に参加しようともしない、行動の結果からしか個人としても社会としても歴史としても判断されない人々の沈黙の心を「視る」という課題です。
表現しきれないもの、表現をやめても続くもの、表現の世界についに登場しないもの。
表現にとって本当に重要なものはそこにあるという逆説的な吉本の考え方の萌芽がここにあります。表現というのは文学表現に限っているのではなく、政治や経済、歴史などの評論や学問などの人間を扱う全ての知の世界を含めています。
社会とか歴史というものが知的興味という程度の膜の外にしかなかった私の長い引きこもりを溶かしてくれたのは、こうした吉本の思想の内向的な徹底性でした。深い引きこもりの奥にまで吉本の言葉は届きます。「選挙に参加しないのは社会に対する責任放棄です、選挙に参加してぜひ我が党に一票を」というようなあくびの出るような参院選の連呼では、かって私がそうであったように、今も、暗い、引きこもった、ぱっとしない、やけっぱちの、トゲトゲした、しかしどこか感性として純性のものを保存している人たちの胸には届かないと思います。それはカウンセリングにとっても本質的な課題であるはずです。