「不安ほど寂しいものはない」(少年と少女へのノート)

これだけ読んでも分かりにくいのですが、やや強引に解釈してみたいと思います。
ふつう不安と寂しさは結びつかないと思います。不安は分からないことへの緊張ですし、いっぽう寂しさは情緒であって、情緒は緊張してたら解放されないものだからです。
たぶんここで吉本が言っている不安というのは、借金とか就職とかが不安だというような実際的な不安ではなく、もっと心の奥のほうで溜まっている不安感のことではないかと思います。具体的に何かが不安というのではないけれども、心の奥のほうにおそらく遠い幼年の頃から居ついているおびえのようなもの。「生まれてすいません」というのは吉本の好きな太宰治の言葉ですけれど、その言葉に共感してしまうような暗さを不安と呼んでいるような気がします。
すると、その不安は情緒として解放された時、つまりふぅ〜とタバコなどをすって心をゆるませた時には寂しさとして感じられるでしょう。
なぜそういう不安は寂しさとして感じられるかといえば、それは人と人との関係が膜を隔てたようにしか感じられないという根源的な孤立感、あるいは見捨てられ感からきているからだと思います。それが吉本の根っこにあるもので、吉本の生涯の研鑚とたたかいを動機づけている感情だと思います。
その不安や寂しさは母親との胎児期、幼児期の関係からやってくるものです。
そしてそれは吉本に特異な感情ではなく、そういう感情を心の奥にひそませている人は大勢います。私もその一人だと思っています。だから私は吉本が太宰が分かるように、吉本が分かります。彼の論理的な仕事が完全に分かるわけではないですが、その心はなんとなく感じることができます。
吉本の特異さは、その根源的な心の奥に巣くう人と人との関係に対するおびえの感情を、隠すこともごまかすこともなく徹底的に論理として解明し歴史や社会の中に位置づけようとしたことです。その徹底性が吉本の凄さですが、一人の人としての吉本の秘めた哀しさや寂しさはありふれたふつうのものだと思います。
そしてそのことを吉本はよく知っています。吉本がふつうのありふれた大衆の姿が自分の思想の根本にあるのだという時、自分の中にある弱さ、人とつながれない膜のようなものに苦しんだ気持ちを手放すまいとしていると思います。
知識の獲得はおうおうにして、そういう弱さを自分自身に対して隠してしまうわけです。そしてその出自を隠してしまった知識は、なぜ知識に向かうのかという真の動機もなくしてしまいます。そして他人事のように社会や政治や心を語るえらそうな知識人が誕生するわけでしょう。そういう退屈な知識人たちと吉本がどこが違うかといえば、たとえ読者が中学生でも読みながらふっと感じることのできるような、心の奥の弱さに対する率直さを生涯手放さないできたことにあると思います。