「豊かな精神は泉のやうにわきあがる。貧しい精神は、沼の干割れのやうだ。それは時代の干割れを反映するのだ。これはお前たちの罪ではない。」(少年と少女へのノート)

これは前の言葉と同じことを別の角度から言っています。おそらくは欧米の豊かな文化的な土壌から生まれる文化・芸術と、日本の敗戦期の貧しい社会から生まれる文化・芸術を並べているのでしょう。
それは敗戦の時に少年少女である者たちの罪ではないわけです。その罪は時代の干割れが負うしかない。
こうした、個人に時代が強いる全ての精神的な重荷を負わせるのは不当だという考え方は、吉本の自分が育った、貧しい、大学に行く奴なんてあまりいない佃島の下町の人々への愛着につながっていると思います。
なぜ権力もない、金もない、毎日の生活だけをくりかえしている人々が、わけのわからない自分のせいでもない精神的な重圧に打ちひしがれなくてはならないのか。なんとなく負い目を負ったような引け目を感じている少年少女は、やがて生活に打ちひしがれた中年や老年になる。それは吉本の育った小世界の姿だからです。
しかしそれを欧米の豊かな土壌の上の精神に憧れて、欧米かぶれになってもどうなるものでもない。いかに遠く果てしない道に思えようとも、自分自身の土壌である生活の感性を掘り下げて、偽りなく最大限に論理化する道しか、真の貧しさを脱する道はないのだと。そういう考えを記していると思います。