「僕は倫理性のない思想を尊重することができない。」(少年と少女へのノート)

倫理とは善悪のことですが、吉本隆明は倫理について若い頃から深く考えてきました。このテーマは大きく、全てを解説できませんが、いくつかのポイントは挙げることができるので、皆さんの考えの参考にしてください。

●善悪についての考えも思想ですが、思想は現実と激突することで人生の軌跡を描いていきます。善悪についての考えも現実と激突して軌跡を描きます。頭の中でこれは善い事、悪い事、と考えてもその通りに生きれるわけではありません。現実と激突した軌跡しか生きることはできない。その軌跡を必然性と言い換えてもいいわけです。人は必然性によって生きるしかない。だとしたら必然性ということを考えに含めた時に善悪の思想はどう作られるべきか。それが吉本の倫理についての思想の始めに抱かれた疑問だったと思います。

●必然性ということを深く追求していくと、必然性は個人個人で違うんだということに突き当たります。なぜこのような人生を生きてきたのか、という本当の理由は個人個人の心の奥にしかない。すると倫理というのは本当はその人にしか分からない部分があるということになります。この倫理というものが個人の奥深くにあるという感じ方、これが吉本の考え方の特徴です。

●一方で、善悪というのは社会における振る舞い方の規範です。法律も根本にあるのは善悪の価値観です。イデオロギーも、どのような社会が善いのか、どういう社会は悪いのか、という善悪の価値観の上に成り立っています。

●この倫理についての個人から社会にわたる複雑さ、それが初期(若い頃)の吉本を苦しめた難問でした。この苦しみから吉本の、人間の観念的な世界(考える世界)は共同体(社会)の中にある時と、個人である時とは別々に考えるしかないのではないか?という原理的な考えが生まれてきます。しかし、この考え方は「社会と個人」ということでそれほど独創的なものではありません。吉本の独創性は、もう一つ、人と人が一対一でつきあう世界は、広い意味での性の世界であり、この世界は社会とも個人とも違うものと考えるしかないという原理的な考察に到達したことに現れました。

●善悪についての考えは、なぜか人類と共に古いわけです。古代の思想は宗教ですが、宗教の根本は善悪についての考えです。「倫理性のない思想」言い換えれば、善悪について追求することを避ける思想は、古代に思想に触れることができないわけです。そして古代の思想である宗教がいまだに多くの人を惹きつける理由も分からない。
従って、人類を古代からたどることのできない思想は信じるに足らない、ということになります。私もそう思います。金がすべて、というような金というものが登場して以降の歴史だけにしか通用しないことを言われても、死ぬまで言ってろとしか思えないわけですよ。それは金は喉から手が出るほど欲しいけどサ。思想としては部分的なことを全てのように言ってるにすぎないんだから、あんまり得意そうに言うなと思います。