「視ること。限りなく視ること。視ることの重要さが消え失せることは未だ未だ来ることはない」(少年と少女へのノート)

この「視る」という表記は吉本隆明の私的な愛用語です。目で「見る」というよりも、思考する、本質を見抜く、というような意味合いが込められていると思います。
だからこの文は、現実の事象を直接に対象として、そこから自力で論理や思想を作り上げることの重要さが消える時は遥か先の時代だという意味でしょう。
吉本はこれを日本およびアジアの置かれた条件として考えているわけです。西欧には、近代的な社会構造を自力で作り上げてきた長い歴史があります。西欧で政治行動が発生する場合は、この西欧人が時に血を流しながら自力で作りあげ、大衆的な規模で身につけている論理化された社会認識が土台になっています。
一方で日本のようなアジアの社会は、社会構造の論理化という面では、西欧に遥かに遅れて、西欧を模倣しながら社会構造の論理化を始めたという段階にあります。
従って、社会認識という面では後進国である日本のような国の課題は、まず社会の論理化を自力で始めるということが前提になります。「視ることの重要さが消え去る時まで」つまり自らの社会の構造を自ら徹底的に論理化し、論理化できるがゆえに作ることも変えることもできる段階が来るまでは、ということになります。そしてその課題は誰が担うかと言えば、知識人が単独で担うのだというのが吉本の洞察であり、吉本の膨大な仕事を貫く信条です。
その孤独でしんどい行程をハナから理解しない者、ガマンが続かずに借り物の論理の上で見た目のいい行動にシャシャリ出る者へ、時に吉本は痛快な罵倒を浴びせます。まず深く分からなければ、メディアで大騒ぎしても、多くの頭数を集めて天下を取った気勢を上げても、なにも始まるわけではないということです。