僕は倫理から下降する。そしてゆきつくところはない。(断想Ⅳ)

倫理とは「こう生きるべきだ」という心の規範ですが、この規範を信じて即座に行動に移す者もいるし、規範に従って生きられないことに罪を感じ押し潰される者もいる。また、この規範を疑いなぜそのような倫理が存在するのかと根拠を問う者もいます。根拠を問うて掘り下げることをここでは下降すると呼んでいます。そしてゆきつくところはない。深い井戸のようなものだ。しかし吉本はゆきつこうとする努力を諦めたことはなかった。どこまで下降したかという吉本の思想を確かめに「母型論」に入っていきます。今週もうまくつながったかな(ー_ーゞ
「母型論」のモチーフは胎児と乳幼児のこころを解明し、言語を獲得していく過程を把握しくことにあります。そしてその解明を人類史の段階的な解明に繋げていくことにあると思います。「母型論」で吉本が胎乳幼児期の解明のために重要視している考え方は母子の内コミュニケーションという概念です。内コミュニケーションは胎児の意識、それは無意識と同じものですが、その胎児の無意識(ライヒのいう無意識の核の領域)のなかで胎児は母と同じように感じ同じように動揺し同じように愉楽を感じる。これは完全な察知の状態といえる。この内コミュニケーションにおける察知の能力が、霊能力などと呼ばれている察知の能力の(インチキ霊能者でないならば)原型ではないかと吉本は考えています。
また内コミュニケーションは幸福に母子が一体化する状態だけとは限らない。母から子への愛情の流れがスムーズでなく、母が子を育てる余裕を失っていたり、子を育てようとする心の腰が引けてしまう精神状態にある場合もある。その時は内コミュニケーションは母と子の間でずれを生じたり背反したりする。その内コミュニケーションの傷は胎児期にあることも乳幼児期にあることもあるだろう。そしてその内コミュニケーションの傷や荒廃や空無が精神病の根底にあると吉本は考えます。
この内コミュニケーションによって母とみえない通路をもちながら、言葉をまだ話せない子が乳幼児期を過ごします。そして子が次第に言葉を覚えていくわけですが、その言葉が出てくるということは内コミュニケーションのこころの状態から出現してくると考えられます。そこで内コミュニケーションのこころをどう捉えるかということが重要になるわけです。吉本がこの解明の基軸にもってくる方法的な考え方は、三木成夫の発生学と自らの心的現象や言語についての理論を連携させたものです。吉本が三木成夫の業績からなにをもってきたかというと、にんげんの身体の発生学的な解明です。人間の身体は発生的に考えれば食物を取り入れる口と栄養を吸収する管と不要物を排泄する肛門があり、そこからさまざまな内臓の臓器が分化して生じていきます。その内臓の発生とともに、体の表面つまり体壁ですが、それは臓器を守り外の世界に向かって開いているわけです。この体壁には皮膚があり、筋肉があり、そして感覚器としての目や耳や鼻や口や性器ができていきます。そしてこうした体壁の感覚器が環界に接して環界の情報と取り入れ認識していきます。そしてまた特ににんげんでは異様に肥大した大脳が発生していきます。ヒトの脳は吉本の言葉では「いつも自己距離を微分化し、覚醒している運動」を行っています。
内臓は植物的な感覚器官であり、植物のように夜と昼、四季のような宇宙的なリズムに呼応して、呼吸とか心臓の鼓動のような自らのリズムを繰り返す沈黙の暗黒の感覚器です。一方体壁系の感覚器官にも睡眠と覚醒のようなリズムがあると同時に、動物的で能動的で絶えず転変する環境に対応しています。この内臓系と体壁系はどう関わるのか。三木成夫の言い方では、顔というのは腸管の末端があたかも肛門の脱肛のようにめくれ返って腸管の内面を露出したものだということです。だから顔の表情は内臓管の視覚的な表象とみなせると吉本は考えます。同様に音声は内臓管(腸管のこと)の聴覚的な表象だということになります。いっぽう内臓が露出した顔には体壁系の筋肉が集まり、目や鼻や耳や口という体壁系の感覚器官が発生しています。
言語の始まりである音声がどのように発生するかというと、それはのどから口と鼻にかけて通り抜ける息が音声となるわけです。音声が出てくる喉は腸管の末端であり、暗い沈黙の内臓世界への入り口です。音声は内臓の感覚と体壁系の感覚の交叉を含みながら、喉と口と鼻の筋肉の複雑な動きによって成立すると吉本は考えます。音声が起源のところで、つまり原始人の最初の音声として発せられた段階では最初の音声は母音であると考えます。母音には日本語なら「あいうえお
の五母音となっていますが、他の民族語では八母音とか三母音とかが存在する。しかしそれらは言語の原音とみなされるもののバリエーションとみなします。するととにかく最初の音声として母音があるんだということになるわけです。この母音として発声する音声が内臓系と体壁系の感覚を縦波と横波のように織り交ぜて音声の「大洋」を拡げていくというイメージを吉本は提出しています。
しかしその音声の登場の手前でどのように内臓系と体壁系の感覚が内コミュニケーションのなかで言語の発生の準備段階を用意できるかという問題があるわけです。それは前言語状態が言語にいたる発生機の状態(ナッセント・ステート)です。それに触れなければ音声言語へ移ることはできません。それはまた明日のこころということで。